会員だより

会員だより —会員のみなさま—

 会員だよりトップへ

2018年  2019年  2020年  2021年  2022年  2023年  2024年  2025年

2025年10月20日
 川越祭りに行ってきました

三沢 充男


 2025年10月18日(土)、川越市の伝統行事「川越祭り」を見に行ってきました。
 昼間は天気だが、夜になると冷えるかもしれないので、薄手の半コートを持ち、このところ天候が不順なので雨具の用意もと、準備怠りなくリュックサックに詰め込んで出かけた。ペットボトルの水も用意すると、かなりの重さになった。家を午後2時に出かけて、西武新宿線の本川越駅についたのは、ちょうど3時。以前も何回か来ているので驚きはしなかったが、駅前はすでに大混雑。
 「川越祭り」というのは、慶安元年(1648年)当時の川越藩主・松平信綱が川越総鎮守である氷川神社に獅子頭や神輿などの祭礼用具を寄進したことに始まる。その3年後、神行行列が初めて町内を渡御し、町の人たちが供奉した。
 新河岸川の舟運などで江戸との交流が深かった小江戸川越。祭の形態は江戸の天下祭の影響を強く受け、豪華絢爛な山車が引き回されるようになり、現在に至っている。
 各町会ごとの山車は、現在16基ある。山車は三ツ車又は四ツ車を持った台座の上に二重の鉾を組み、上層の鉾の上に人形を載せる。この部分は下層の鉾の中からせり出す構造になっている。鉾の前面には欄間や唐破風のついた囃子台があり、廻り舞台になっている。上段の人形は能や雅楽、神話の英雄などを題材にした人形が載せられていて、古い人形は江戸時代に後期に製作されたものもあるらしい。
 さて、大混雑の中を人の間を掻いくぐるように進んでいくと、山車とは別に町内の会所近くにお囃子の屋台が設けられていて、笛や太鼓に合わせて、獅子、オカメ、ヒョットコなどが踊っていた。その前に来ると、もう人がギッシリ集まっていて身動きができなくなりそうだ。そんな中で、こちらもスマホを高くかざして、写真を撮った。
 さらに進んでいくと、提灯を先頭にして大勢の人たちが長い綱で曳く山車が見えてきた。係りの人の交通整理で道の端の方に寄せられながらも、何とか人の頭の上からスマホを翳す。踊りを見るよりもスマホで写真を撮る方に注意が行ってしまう自分がおかしくもなる。道路の傍らには有名な蔵屋敷も何軒かあった。(川越は平成21年(2009年)、NHKの朝ドラ「つばさ」(多部未華子主演)の舞台となった。)
 途中で右の脇道に入り、時の鐘を見に行った。この「時の鐘」は川越藩主の酒井忠勝によって建てられた。その後、何度も火災に見舞われ、現在の鐘は4代目で、明治26年(1893年)の川越大火の翌年に再建されたものである。高さ16メートルの三層構造で、毎日4回(午前6時、正午、午後3時、午後6時)撞かれる。
 元の通りに戻ってさらに進むと、札ノ辻という大きな十字路があり、ここで三台の山車が鉢合わせしていた。こういう時は川越祭りの最大の見どころである「曳っかわせ」が行なわれる。それぞれの山車を正面に向かい合わせ(そのために台座は回転できるようになっている)、オカメ、ヒョットコ、キツネなどの面を付けた踊り手とお囃子が、互いの挨拶のために、儀礼的な競演を行うのである。2台の山車がすれ違う時に「曳っかわせ」を行うのは珍しくないが、このような3台の山車の「曳っかわせ」の場に行逢うことができるのは、極めてまれで、この日最大の幸運だった。
 その後、菓子屋横町に立ち寄り、ソフトクリームを買って、渇いた喉を潤した。
 元の札ノ辻に戻り、そこを右折して二百メートルほど行くと市役所前の広場に出た。ここには山車が集結してすべての山車を一度に見られることもあるが、今回は山車揃いは行われないようだった。
 この日の私の計画では、ここから川越氷川神社、川越城跡、喜多院などを巡る予定だったが、疲れてしまって、さらに歩を進める元気がなくなってしまった。普段から早朝ウオーキングやスポーツジムでヨガなどを行って身体を鍛えている積りではあったが、いざというと元気が出ないのを情けなく思ったのでした(やはり、歳には勝てないのかな)。
 それから裏通りを通って本川越駅まで戻ったのだが、メインイベントである宵山(山車に提灯を灯して、幻想的な雰囲気の中で居囃子や、「曳っかわせ」が演じられる)や、伝統的な梯子乗りなどが行われるまでにはまだ2時間近くあり、身体も言うことを利かなくなってきたので、後ろ髪を引かれながらも帰宅することにした。
 お陰で寒さ対策のコートや雨具も不要となり、何のために重い荷物を背負って歩いたのかと、残念にも思ったが、それでも久しぶりの川越祭りを楽しむことができた一日であった。


2025年7月28日
 変形性膝関節症

三沢 充男


 年を取ると、身体のあちこちに不具合が生じるのは生き物としての人間の宿命だ。ただそれがどのような形で症状として表れるかは、人それぞれ。原因も、これまでの生き方や先祖からの遺伝などいろいろ。
 だが宿命だからと諦めるわけにも行かないのが、これまた人生なのだ。何とかして今日一日を苦痛から逃れ、できるだけ安楽に過ごしたい。そして明日も明後日も……。
我が身を振り返って見れば、それは「病気のデパート」とまでは行かないまでもいろいろある。一番の心配事は心臓である。16年前心房細動という不整脈に襲われ、息切れがして歩行もままならぬ状態になった。大学病院で「カテーテル・アブレーション」という、心臓の中にカテーテルを通して不整脈の源を焼灼するという施術を受けて、何とか生き長らえてきた。最近それがまたぞろ不穏になってきてヒヤヒヤしている。それ以外にもいろいろあるが数え出したらキリがないので、今回は差し当たって一番痛切に悩んでいる「膝」について述べてみたい。

 このところ左膝の痛みがひどくなった。遡れば数年前からだが、最近は歩くと痛いのは勿論のこと、じっとしていても痛むことがある。整形外科でレントゲンを撮って、下された診断は「変形性膝関節症」である。
 それで、変形性膝関節症というのはどんな病気なのか調べてみた。
 膝の構造は、大腿骨(太ももの骨)、脛骨(すねの骨)、膝蓋骨(お皿)の3つの骨が組み合わさってできている。すねの骨の上を太ももの骨が滑り転がることによって曲げ伸ばしができるのだが、クッション性のある柔らかな関節軟骨が骨を覆っているほか、3つの骨の間には関節液があり、これらがスムーズな膝の動きを可能にしている。また、大腿骨と脛骨の間にある半月板も関節の衝撃を吸収している。
 膝関節は長年使っていると、軟骨や半月板がすり減ってくる。何十キロという体重を支えているのだから、当然である。加齢などに伴い軟骨も十分に再生されなくなると、更に軟骨の下の骨も擦り減ってくる。そして関節の表面がデコボコに変形し、滑らかな動きが障害されて、生じた炎症から痛みを出すのが変形性膝関節症というわけだ。
 症状は人によって差異が見られるが、一般的には初期段階で、階段の上り下りや歩き始めに痛んだり、正座やしゃがむ姿勢がつらくなる。病気の進行とともに、起床時の膝のこわばりや、関節が炎症を起こし、膝関節液の過剰滞留(水がたまる)などの症状が出やすくなる。さらに進行すると、大腿骨と脛骨が直接こすれることで激しい痛みが生じ、やがて歩行困難となる。

 変形性膝関節症という病気は、年齢が上がるにつれ、増えていくのが特徴で、ある疫学調査では、60歳以上の女性が40%、男性の約20%が、変形性膝関節症と診断されている。この割合は、私の年代の80歳代になると、女性は60%以上、男性は50%にものぼるといい、日本国内での患者数は約700万人というありふれた疾患だと、専門家は言う。
 それじゃあ「私が痛くてもちっとも不思議ではないなあ」とは思うけれど、毎日の生活に支障が出るわけだから、このままにしておくわけには行かない。
 それで整形外科でやってもらう治療は、ヒアルロン酸の注射とロキソニンテープという湿布薬、それから痛み止めの服薬。だがこのヒアルロン酸の注射というのがすごく痛い。膝のお皿のすぐ上の少し外側に寄ったあたりに注射針を刺すのだが、思わず悲鳴を上げてしまうくらい痛い。注射の後はしばらく休まないと歩き出せないこともある。ただ、この程度の治療ですめばよいが、進行して保存療法や運動療法では改善できないときは、手術ということになる。
 手術も段階に応じて選択肢があるが、簡単なのは、「関節鏡手術」といって、関節内ですり切れた半月板や軟骨のささくれを取り除いたり、増殖した滑膜を除去したりする、いわば「関節のお掃除」みたいなものである。次は、「高位脛骨骨切術(こういけいこつこつきりじゅつ)」といって、膝が変形すると膝の内側や外側の軟骨や半月板といったクッションが傷んでくるので、この膝の変形を、骨を切って矯正する手術である。さらに症状が進んだ場合は、「人工膝関節置換術」といって、変形した膝関節の表面を薄く削り、人工の関節に置き換える手術をすることになる。
 まあ、こんなことにならないように普段の生活態度や運動に気を付けたり、こまめに治療をしたりするよりほかはないのだが、ここで、レントゲン検査とMRI検査について触れておきたい。

◇変形性膝関節症の進行度が容易に分かるレントゲン検査
 レントゲンはX線で簡易に短時間で検査できるので、変形性膝関節症が疑われるときは、ほとんどの整形外科で行われている。シンプルな写真情報なので骨の形状の変化がわかりやすく、骨や関節がどれくらい変形しているかが読み取れる。
 変形性膝関節症にはレントゲン写真から進行具合を診断する指標があり、関節の隙間の広さや骨の形によって、正常な膝から末期の膝までを0〜4までのグレードに分類される。グレード2(膝の隙間の狭小程度[軟骨がすり減って関節の隙間が狭くなった状態]が25%以下)までの初期であればヒアルロン酸注射を行いつつ運動療法で経過をみることが多いが、グレード3~4(隙間がそれより狭く、骨棘や骨軟化が顕著になる。)くらいに進行すると、手術を考えることになる。

◇軟骨など詳細なところも分かるMRI画像
 ただ、骨の形だけでは隠れた痛みの原因がわからないこともある。ひざ関節は骨以外にも様々な組織で組み立てられているので、骨以外の異常が痛みに影響していることも多い。そんな隠れた原因を探るために行う検査がMRIである。
 MRI画像では、組織がどのような状態かまで視覚的に調べることができる。例えば軟骨のすり減りの場合、レントゲンだと関節の隙間の大小で程度を推測するが、MRIでは軟骨そのものが映し出される。半月板や靭帯も損傷、もしくは断裂していないかどうかがわかる。骨については炎症や壊死といった内部の状態まで確認できる。
 レントゲン写真からわかる変形性膝関節症の進行度と痛みの強さが釣り合わなかったり、生活に支障が出ているケースでは、このような隠れた原因が関係していることも考えられる。高齢化すれば経年変化によって、半月板や靭帯に何かしらの異常をきたしていることが多いが、その有無をMRIでは見つけることができる。

 以前一度MRI画像を撮ってもらったことがある。その時は全体的には軽度だが軟骨がややすり減っていて、そのすり減ってできた細かい屑が関節内に浮遊しているといわれた。痛みの原因はこれだったらしい。  今度改めてレントゲンを撮ってみたところ(上記右端のレントゲン写真)、少し骨棘が出ているところがあるが骨の隙間もそれほど進行しているわけではなく、軽度であるとの診断であった。改めてMRIを撮った方が良いのかも知れないが、折角軽症だと言われて気分が良くなったところだから、余り大げさに考えない方が良いのではないかとも思っている。息子からはウオーキングを控えろと忠告されているけれど、歩かなければ歩かないで、足の筋肉が衰えるので、バランスをとるのが難しい。それで時々前述のヒアルロン注射をしてもらったり、ロキソニンのシップ薬を張ったりして、その場をしのいでいる。


2025年1月14日
 第101回箱根駅伝雑感  往路はアッパレ!! 復路には激励の喝

応援部OB 傘寿老人 小塚 正人


 今回の関心は、出場校10人の10,000m平均タイムが過去最高の値28分15秒61の中大がスピードを生かせるかにあった。因みに青学大は28分20秒04の2位。トラックレースとロードレースでの記録は必ずしも一致しないと言われている。
 なお、エース級と言える選手総数では青学大、駒沢大、国学院大が各6人、中大は4人(「月間陸上競技」より)でのレース開始である。

 往路では、持ち前のスピードを発揮したのは中大であった。1区の吉井駿恭君(3年)は3年前の兄(大和君、1区最高記録保持者)に勇気付けられ、前回(7区)に続き連続区間賞の疾走であった。新春の陽光にもっとも映えたのは「Ⅽ」マークと深紅のタスキだった。無難に繫いだ2区エースの一人、溜池君(3年)からタスキを受け取った3区準エース本間君(2年)も、吉井、溜池君に触発され、湘南の風に影響されず、これまた快走の区間賞を獲得した。
 44区白川君(3年)は後続(青学大)に距離を詰められたものの、1位のまま5区にタスキが渡り、往路2位のゴールは、前3人のスピードランナーのアドバンテージによること大なり。
 山上り5区園木君(4年)は9.5km付近で逆転され、中大ファンをハラハラさせたものの粘走(区間6位)し、2位でゴールした。1年留年して出走した彼は最初で最後の箱根であり、父親(72回大会中大優勝時の主務)が走れなかった大願を成就させた。親子の絆に感動。本人の努力を讃えたい。

 復路では、ロードレースはスピードだけではなく、持久力、強い体力も必要と、またまた痛感させられた。
 トップと1分47秒差でスタートした6区浦田君(4年、父親は前中大駅伝監督)は前回同様、区間6位で走行するも、大きく青学大に先行を許し、7区期待の岡田君(1年)は好走するも、駒沢大のエースに追い抜かれ3位に後退した。
 その後3位キープを望む中大ファンの祈りも空しく、8区佐藤君(1年)は体調にアクシデントもあり、区間最下位20位となり、6位まで順位を下げ、一時は悪夢のシード権外落ちも考えられた。しかし9区吉中君(3年)は、他校と競りながら6位で10区のアンカー藤田君(2年)に繫いだ。藤田君も3校の競合いに勝ち、順位を一つ上げ、5位でゴールテープを切った。
 彼の踏ん張り(区間4位)は今大会で往路の区間賞2人に次ぐ3番目の成で称賛に値する。彼の精神的支柱は、昨秋に亡くなった母親の「箱根の夢だけは忘れないで!」であったとか。天国の母に感謝。

 大会は往路2位、復路13位、総合5位で終了した。しかし、何か物足りなさを感じたのは私一人だけだろうか?
レース後の藤原監督の発言(主旨)は、
①往路2位から逆転を目指したが、総合5位に終わった。
②前年13位から1年での上位復帰に安堵した。チーム力を証明した。
③8区で6位まで後退したが、しっかりカバーし5位までもどしたので、来年に繋がる駅伝になったが、悔しさが非常に残る。
 来年は頂点に挑戦したい、と力強く語った。

 終りに、今年のメンバーが8人残る。他に有力選手もいるし、有望新人の加入も決定しており、来年以降が楽しみ。大いに期待したい。そして「優勝」を……。
 なお、敢えて更に望むことは①強靭な体力、②スマートさよりも泥臭さか。
 頑張れ中大。名門中大!!

 読売新聞オンライン 箱根駅伝成績(グラフ右端の中大のところをクリックしてください。)