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2023年12月11日
 私とゴルフ(5)

久野修慈(学員会会長)

 最後に思い起こせばキューバのカストロ氏とキューバとの債権(日本のキューバ債権3,600億)交渉で親しくなり、キューバのゴルフ場でプレイした時の緊 張感とカストロ氏のユーモア、革命家としてボールを打つ姿、なんとも表現出来ない革命家のゴルフ姿を今も忘れることが出来ません。カストロ氏は若い時野球のプロであったことからドライバーを打つ力に驚いた次第です。その後カストロ氏からキューバとの友好の証として私は特別表彰を受けましたが日本人13人(森元総理もその一人)の一人として誇りに思っていますが、カストロ氏の穏やかな革命思想のない笑のプレイをもう一度見たいものです。
 キューバと日本との貿易保険枠が60億の折、キューバ政府から依頼され通産大臣室で私がキューバ代表と交渉した折、当時の二階大臣の英断で米国の許可なく120億まで増枠されたこと、キューバへの協力者として米国、外務省にマークされていた私としては忘れえぬことであります。私は米国のキューバ制裁措置の緩和を求めていたもので国際平和のため正しいことであった。
 私は大洋漁業の創立者である中部社長に特別可愛がられ、その縁で中部社長と 当時の経団連会長と最初にキューバを訪問した折、同伴しキューバにマルハの技術で冷蔵工場をプレゼントし友好を深めたのがキューバとの縁となりカストロ氏と何か歩調が合い信頼を得たのだと存じます。
 キューバと米国が激しく対立して居り、世界の平和を願い当時の大洋漁業と新 日鉄で冷蔵工場を寄付したものにて今もその工場は現存して居ります。今この時期にキューバのカストロ体制が終わりを告げたこと不思議なことです。
 森総理とも北陸人として親しく新宿の花園饅頭の石川社長(大学の後輩)と森さんが金澤の学友で懇意であったことから昔から親しく、総理に就任した時は洋菓子の神様今田美奈子先生作のお菓子の360日幸せのツリーをプレゼントし喜んで頂いたが母校中大のロースクールの問題でも協力願い今でも感謝している。地元の名門、片山津ゴルフ倶楽部は有名で森総理の紹介で砂糖業界のゴルフコンペを行い出席した業界人がその雰囲気に感激し、業界の協調体制確立に至ったこと嬉しく思います。
 森さんは本当に本当に心の優しい人で北陸人として人を大切にされる方です。不思議なことですが私の会社を昭和20年代運営していた山形晋氏は戦後の大財閥で砂糖で利益を得、戦後ゴルフ場を増設し日本プロゴルフ界をリードし、当時青木、鷹巣プレイヤーは同氏のキャディーをしていた時代がありますが、ゴルフ場の増設で経営が行き詰まり白洲次郎先生の斡旋で大洋漁業が受け継いだのが私の会社にて事業運営のいたずらを感じると共にその会社のリーダーを務めている私の宿命を感じるものです。山形晋氏は長嶋茂雄、横綱の先代若乃花の後援会長もして居り、その長嶋氏と私が親友なのも不思議な運命であります。このようにくだらない文章を書いて見ました。天国の白洲次郎氏も多分馬鹿者と笑っているでしょう。思えば白洲次郎氏の英国ケンブリッジ大育ちのあのダンディな姿と雰囲気、ゴルフ姿とそのプレイ、そしてポルシェで時速200キロのスピードでの車の運転(私はその車に乗っていた)は今では考えられない姿であり現代に存在しない人間像であったと思います。ファッションデザイナー・イッセイミヤケ作のコートの裏地にミンクの毛皮を貼り付けた私として(当時 大洋漁業でミンクを事業化し、その推進を私が担当していたため、そのため私はミンクの毛皮のプロです)、そのスタイリスト白洲次郎先生のコート姿、その時の洒落た写真を見る度に忘れることは出来ない思い出であります。
 思えば今白洲次郎氏と親しく交わった日本人は身内以外(先般帝国ホテルの犬丸社長→(先代から白洲氏と懇意)亡くなり私一人となってしまったが、ゴルフ以外でも多くの方々と出会い、その白洲氏の生き方を知っている方が今 や生存されていない中、 白洲氏の戦後国家存亡に懸けたその真実の姿を描き示 したく存じて居ります。日本という国を心から愛し、人々の心を大切にし、純粋にゴルフを楽しみ、女性を大切に生きたその姿は何なのか表現したく存じます。各作家が白洲氏を描いて居られるが日々一緒であった私しか知らない白洲哲学が今こそ国家にとって大切な時が来たように存じます。
 戦後の復興間近な新橋や銀座で白洲氏はそのダンディさや地位、立場で女性に親しまれたのではなく、国を愛する素朴な人間力とその庶民性から親しまれ愛されたのではないでしょうか。それが我が国が敗戦国であっても米国と堂々と対決し一人の国民の立場で国を愛し対米交渉を進めた白洲氏の原点だと存じます。
 白洲次郎氏が懇意にしていた方々として、作家の川口松太郎、川端康成、大岡昇平、永井建龍男、松本清張、水上勉、今日出海、小林秀雄、宇野千代、学者の河上徹太郎、経済人の麻生太賀吉・和子、豊田章一郎、正力松太郎、水野成夫、堤清二、出光佐三、鹿島守之助、渥美健夫、小林一三、中山素平、藤山愛一郎、高碕達之助、土光敏夫、大沢善朗、正宗猪早夫、松永安左衛門、石田礼吉、鮎川義介、永山時雄、永山治、池田芳蔵、小林陽太郎、犬丸徹三、犬丸一郎、成田昭夫、井深大、前田又兵衛、政界人の岸信介、佐藤栄作、池田勇人、細川護熙、宮沢喜一各総理、 憲法に関与した松本烝治国務大臣、その秘書三邊慶大医学部教授、外交官の牛場信彦、世界的デザイナー三宅一生、川喜多かしこ、など思い出せばきりがないが、今思えば各々の人がプリンシプルでディシプリンに徹する白洲氏と同じ生き方であった。安倍晋三元総理の父親の晋太郎氏は毎日新聞記者時代に白洲番をしていたこと知る人はいない。食事や酒の席も同じ生き方で白洲氏が愛用した銀座の鮨屋きよ田、京すし、天ぷらの佐が和、京都料理の京味(私が初めて京味に案内されて時、麻生太賀吉・和子夫妻(麻生副総理の両親)と会食したが緊張のままであった)、ステーキの誠、新橋の料亭金田中、新喜楽、花蝶、京都のお茶屋の松八重、銀座のバーのエスポワール、おそめ、ラドンナ、六本木のレストラン「ジョエル・ロブション」、代官山の「レンガ屋」に白洲氏はよく足を運んで会食していた事懐かしい思い出であり、三宅一生デザイナーに依る美人モデルの北村みどりさんとのデートやモデル写真は今にないダンディな光景である。
 白洲正子さんとは二回お会いし電話で数回お話ししたが言葉で表現出来ない日本女性の鏡のような女性像にて随筆家、陶器家として国の伝統そのものであったと存じます。白洲氏が私に言った言葉、「久野君陶器が本物か偽物かは10日位その陶器を見ていれば陶器がご主人私は偽物ですと白状する」と言った事忘れません。夫婦両人共、今思えば真の陶器家であったと存じます。
 このように白洲氏は素晴らしい人生を過ごした。私も「カントリージェントルマン」北康利作の書籍に表現されているが秘書として選ばれ20年間仕えたのは運命のいたずらであり、私が晩年の20年間全く変わり者の渡部運転手(白洲氏が日本テレビの役員をしていた時からの運転手)と共にマルハの経営者兼秘書として仕えたのは人間の宿命で今思えばドラマであった。
 なぜ吉田茂総理に信用されたのか、なぜダグラス・マッカーサーも恐れず国の基本を守り対決したのか、それが出来たのか本当の処を知りたいものです。私のような田舎育ちの人間が英国紳士の白洲次郎先生に20年間可愛がられたのは考えて見れば「ゴマをすらない、権力と闘う」共通の生き方によるものと思う。

 最後に松山プレイヤー、世界のプレイヤーとして一層頑張って頂くこと、皆様にもあらゆるスポーツプレイを楽しんで新型コロナウイルスを乗り越えて頂くことを念じて雑文を終わります。多くの知人、友人に感謝して。

福井県吉田郡重立村出身85歳(永平寺近く)


2023年11月13日
 私とゴルフ(4)

久野修慈(学員会会長)

 多くの方々と今から35年前にゴルフを楽しんで参りましたがその中でも思い起 こすことは福田赳夫総理が新年ゴルフ会を開催し、帰りにゴルフ場の方々全てが総理を見送り、その感謝の気持ちで見送って頂いた一人一人(掃除のおばさんやキャディー一人一人に)にお礼のお便りを葉書に自筆で書かれ出されていた福田総理の人間味あるお姿を忘れることが出来ません。福田総理は鯵の干物が大好きでその縁で親しくさせて頂きました。それこそ底辺に立つ真の総理のお姿であったと存じます。
 竹下総理とも再三ゴルフを楽しみ、竹下派ゴルフ会で優勝した時竹下総理が高知の業者に作成させた竹だけの竹下登焼版入りのパターを私はプレゼントされ、そのパターで私が砂糖業界の重要問題でその代表として米国の国際穀物取引所の理事長とプレイした折、そのパターを記念にプレゼントし米国にない貴重なパターとして帰国後、そのパターを理事長室の壁掛けに掛けて頂いた事、そして運命のいたずらであの9.11事件の折、ビルと共にその壁掛けのパターも燃えつくした事、その後竹下登先生もお亡くなりになられたこと運命のいたずらを感じてなりません。
 資生堂の(福原オーナーの弟で中大の先輩)福原副社長とゴルフをした折、バンカーにボールが入り打った後バンカーを手で直されたので先輩に何故ですかと質問したところ、女性の化粧品を資生堂は商売にしている以上、バンカーも手でならす気持ちがなければ化粧品も売るべきでないと話された姿、一生忘れえぬものです。官僚の方々も今の時代と異なってゴルフを楽しみ、真の政策の在り方を議論したものである。今では大問題であろうが真の対話により真の政策を生み出すことは大切なことでそれを全く否定することは如何かと思う。
 財務省初代国際金融局長(現 財務官) 大場智満氏や農林水産省京谷次官などとゴルフを通して語り合い、政策の在り方を話し合ったが大場さんのように欲得なく自然に国際金融情勢を語らい教えて頂いたこと、ゴルフを通し外交官、財務官としてそのマナーに触れさせて頂いたこと感謝しています。
 淡々とプレイされ乍ら国の真の政策を考えて居られた姿、今も忘れられません。京谷次官は太っ腹で大衆官僚であったがゴルフプレイも同じでありました。日本の農業、林業、漁業政策をその親分的使命感で背負っていた姿こそ日本農業の原点でありました。
 マルハ時代に私の部下であった新治君は東京大学のエース投手で東大卒で初めてプロになり(六大学の成績が6勝36敗、大洋ホエールズの成績が13勝7敗)マルハに入社、大洋ホエールズで投手として名を上げ野球を辞めた後、私の部下として永年助けてくれたが東京大学出身スポーツマンとしての経済的知見には驚いたものである。ゴルフはシングルプレイヤー、1メートル90センチの大男であったが同伴の方々を喜ばせるプレイやそのマナーは東大ならではのものでゴルフでプロ選手になっていたならトム・ワトソンのような名ゴルフプレイヤーになったと思う。
 新治君を連れロサンゼルスドジャースにアイク生原氏を大洋球団の社長にすべくスカウトに行ったがそのアイク生原氏とドジャースのピーター・オマリー会長(野球をオリンピック種目に設定した人)とゴルフをした事で残念乍らオマリ一会長が日本にスカウトされてはならないとアイク生原氏がドジャースの副会 長に抜擢されたこと忘れられない思い出であります。
 アイク生原氏は早稲田大学野球部出身で早大野球の神様、飛田穂洲氏の愛弟子にて亜細亜大学を3回優勝させ外野の球拾いからドジャースの副会長になりお亡くなりになったが日米の野球界を結びつけた功労者で長嶋茂雄氏が一番信用する国際野球人であった。
 私は東京バーディークラブ、福島の白河高原カントリーゴルフクラブの会員でしたがそのゴルフ場は福島県の松平知事(松平家の殿様)が建設したもので東北ナンバーワンのゴルフ場にて茅葺のクラブハウス、その温泉、水とともに最高にて私はこのゴルフ場で多くの方々を招きゴルフを楽しみましたが茅葺のクラブハウスの心豊かな場所で食事を通し、多くの友人、多くの経済人とプレイしたこと私の人生の財産と存じます。私は多くのゴルフ場でプレイしましたがこの白河のゴルフ場(茅葺と丸太で作られたハウス)が国内ナンバーワンの自然環境ゴルフクラブと存じます。
 中央大学経済学部教授で会計学の権威井上達雄先生ともゴルフを楽しんだが会計学を逸脱したゴルフスコアとその笑顔、庶民性には勉強させられたものである、だがその会計学は笑顔の会計学であった。
 京王電鉄株式会社傘下の桜ヶ丘ゴルフクラブは名門にてその社長に中大の後輩中川氏が就任し大学ゴルフ部、大学関係者のゴルフ会にご尽力頂いたがその人格は白洲次郎先生と同じで欲得なしでゴルフを楽しませて頂いた。亡くなられ私は大学を代表し弔辞を述べたが大学問題で何が真実か何が正しいかを主張され、心から応援して頂いた事、感謝の限りで誠のファインプレーであった。松山プレイヤーがマスターズに優勝した事が私の老体を奮い立たせ私は老体乍ら(もう15年ゴルフプレイしていない)昔、マスターズに優勝したジャック・ニクラス、トム・ワトソン、セベバレステロスとゴルフを同伴出来たことを今、になり誇りに思い、雑文を記してみたく無茶苦茶な文章を書いてみました。

(続く)


2023年10月16日
 私とゴルフ(3)

久野修慈(学員会会長)

 財界人としては住友銀行頭取で日本航空会長(同社を再建) をされていた堀田頭取と白洲先生が懇意であったため埼玉の高坂カントリークラブ(堀田さんが理事長として再建)でプレイした時、穏やかで幅広い鋭い判断力に銀行経営者の手本を見た感じで当時の銀行トップの威厳は日本経済の指導者的立場にあったと思う。
 同じくプレイした頭取秘書役は若くして癌で亡くなられたが彼が今銀行のトッ プに居られたらと悔やまれてならない。
 日本興業銀行の正宗頭取とも白洲先生の友人であったため特別可愛がられ青山 のシンプルなバーで飲み語らいゴルフを共にして来たがその平々凡々とされている姿こそ日本のトップ銀行の人格を強く感じ、国際金融の経済人としての威厳を忘れることが出来ない。
 アナウンサーとして米国の殿堂入りを果てしているNHKの名アナウンサーでオリンピックを10数回アナウンスしたあの羽佐間正夫氏とも長い付き合いにて彼の親友、読売巨人軍の川上哲治氏と毎年1回親交のコンペを200人程で開催しておりましたがその集まりは個性豊かで羽佐間氏、川上氏の親しい人の集まりで一生忘れえぬコンペでありました。コンペの当日川上氏はゴルフ場に一番乗りし玄関前で一人一人のお客様を出迎え、帰りには玄関先で一人一人に感謝のお礼の挨拶をしていた姿、プレイより人の交わりを大切に生きるお姿を見て感動していたものであります。それだけに川上氏もお亡くなりになり、羽佐間氏は現在病気療養中でありますが東京オリンピックで羽佐間氏があの素敵な声でアナウンスしたようにもう一度国民の皆様に愛情を込めた声を聴かせて頂きたいものであります。 大宅映子大先生とはその縁で知り合い一緒にゴルフプレイをした縁で今も懇意にさせて頂いて居りますが一緒にゴルフを回った時怒られないよう怒られないようプレイし、大宅先生の女性としての人間の強さ、その素朴な魅力に感動したものです。
 大洋ホエールズの社長時代、12球団ゴルフコンペに出場しゴルフ終了後、王、衣笠、田淵選手の3人のプレイヤーに感心したことは入浴の折、各々下着を綺麗に片付け入浴すると共に入浴場で使用した風呂桶を綺麗に洗い元に戻し風呂から上がるそのマナーに超一選手の人間像を見たことである。
 そのコンペでは準優勝し多くの野球関係者に祝福を受け、飲み過ぎた事忘れえぬ思い出です。田淵選手とは横綱の輪島氏との関係で懇意であったが輪島氏の剛力は桁外れでゴルフプレイ中にアイアンを折る姿、正に横綱の姿であった。輪島氏が遊び三昧で破産した折、 その相談に乗り解決した事、彼の日本大学当時の親友がアルバイトニュース社(当時はリクルートと同じ企業体であった)社長の井上氏で井上氏が本社として建設した市ヶ谷のビルを中央大学理事長時、私が購入したこと何かの縁の結びつきです。王氏とはゴルフプレイを同伴したことはないが政界のドン、辻トシ子(先日100歳で没・辻嘉六の娘(辻嘉六は明治時代の政界の黒幕)おばさんと政治家、官僚とのゴルフ、麻雀に毎週つきあわされた))おばさんとの関係で親しく、その実直で誠実な人柄に感動している次第です。
 公明党の竹入委員長とも懇意で目立たないゴルフ場で目立たないようにゴルフを楽しみ、政治の在り方を話し合っていましたが、あのような優しく純粋な政 治家は居なかったように思います。
青木、金井、陳、岡本、樋口など多くの日本人プロプレイヤーともゴルフプレイを通じその人間性を学びとって来ましたが経験出来ないことで今思えば私の大きなゴルフ財産であり、樋口さんからのお教えで私はパターが上手になり感謝して居ります。又、陳氏の礼儀正しさと風を読む力に感心したものです。青木氏とプレイした時、私のドライバーが余りにも飛ぶのを見て何の仕事をされていたのかと質問があり、私が田舎で百姓していたのですよと言った折の青木氏の表情を今も忘れることが出来ない風景でした。戦後、お米のない時代に私は6歳の時から田畑を耕し山で狩りを父から命令されていたことが足腰を強くしたようです。
 最後にゴルフ人生の仕上げとして運命のいたずらで私がゴルフ場を建設したこと何の運命なのか今も分からない心境であります。
 私の所属したマルハは中部一族が支配しゴルフに熱中し乍ら、魚をとる事業経営の中にあったため当時の中部副社長が関東にゴルフ場建設を計画、進めて居りましたが地元の反対で中断していた事業を私が再建することとなりその経営を委されたことからやむを得ずその建設に当り、当時の茨城県の町長、知事と話合い茨城県の久慈郡金砂郷村に建設したのが久慈大洋ゴルフクラブにてゴルフ場建設を運命のいたずらで推進することになりオープンしたこと今思えば夢のような事でありました。当時としては高級ゴルフ場で中部銀次郎がコース設計を行い、亡き茨城県水戸高校出身の後藤田官房長官大先生に理事長を(福田一衆議院議長との関係から懇意な関係に)お願いしオープン、オープンの時には茨城県選出の梶山官房長官(南極の氷が大好きで懇意に)もお祝いに出席して頂き盛大にゴルフ場開きをした事、今思えば何か夢のようです。
 中部銀次郎氏は私より若くして亡くなりましたが深夜まで銀座のクラブで飲んでいてもゴルフ場設計の仕事のために朝早くから真剣勝負で臨み、足と身体でゴルフ場用地に(久慈大洋ゴルフクラブ設計)最高のコースを作るため山林を長靴で確認し乍ら歩く姿を見てゴルフ場への愛着と執念を痛感した次第です。
 建設費150億、会員500名にて私のアイデアで女性の化粧室にシャネルブランドを使ったこと懐かしく思います。その後ゴルフ場は売却し、今も現存して居りますが懐かしくもう一度プレイしたく存じます。

(続く)


2023年9月12日
 私とゴルフ(2)

久野修慈(学員会会長)

 白洲次郎先生のおかげで東京クラブでジャック・ニクラウスとゴルフのプレイを楽しませて頂いたこと一生忘れられない感動の思い出で彼が昼食の折、食事を辞退しオレンジジュース一杯で昼食を済ませた時、世界ナンバーワンのプレイヤーとして自己管理を徹底していたこと忘れえぬ思い出であり、食事管理もプレイの一つとして徹底していた姿を拝見しました。
 私は今から40年前、横浜大洋ホエールズの社長をしていたため有名なゴルファーとプレイの交わりを持ったことも人生の大きな思い出であります。
プロ、アマの太平洋クラシック、フジサンケイクラシックに参加しマスターズで優勝したセベバレステロス(スペイン)と回り優勝し、彼の13回優勝したサイン入りバックをプレゼントされたこと今も感激一杯であり、同じくマスターズに優勝したトム・ワトソンと回り準優勝、今考えれば考えられないことで世界的プレイヤーの人間性と世界的ゴルフスターとしての国際的マナーに感動したものであります。トム・ワトソンとプレイした折、トム・ワトソンの知的水準の高さに驚くと共にプレイに於いてもクラブの選び方、風の読み方、フェアウェイグリーンの読み方、その科学的水準の高さに感服すると共に米国を代表する外交官的雰囲気に驚いた次第であります。今思えばマスターズに優勝したジャック・ニクラウス、トム・ワトソン、セベバレステロスとゴルフでプレイ出来たことは経験出来ない私の人生の宝であり、その方々が人間性豊かで人間愛そのものの方々にて且つプレイヤーとして強い信念を持ち自己管理に徹底していただけに松山選手も同じではないかと松山選手の優勝に感動する次第です。フジサンケイクラシックでは4位でしたが川奈ゴルフクラブの難コース180 ヤードショートコースでバーディーを獲り尾崎以来の快挙としてフジサンケイグループから賞金30万円を頂き、当時の産経鹿内社長にお祝いの大宴会を催して頂いたことも忘れえぬことです。思えば亡き産経鹿内社長とは親友であ ったためある日、戸塚カントリークラブでプレイした折、私がショートコースで池に入り打ち直したところ打で入りホールインワンの裏を成し遂げ彼にそのお祝いの大宴会を催して頂いたことも忘れえぬ思い出であります。
 鹿内氏も同伴した日本放送川内社長も早くお亡くなりになり、そのユーモラスなプレイを忘れることが出来ません。川内氏はユーモアの天才でゴルフスタートの折、靴下のままティグランドに立った姿、ユーモアゴルフの天才でありました。ゴルフプレイでOB後ホールインワンすることは全くないことだけに考 えて見れば私はホールインワンの裏、表を成し遂げたプレイヤーにてこのような経験者はゴルフ界に居ないのではないかと思います。
 思えば鈴木善幸総理とも日ソ漁業交渉で親しくなり札幌のゴルフ場で鈴木総理、山村農林大臣(よど号事件で活躍)、女優の山本陽子さんとプレイし、そのスタートの折、100人のギャラリーの見る前でドライバーを打ったところ、鈴木総理が10メートルのゴロ、山本陽子さんが10メートルのフライ、山村氏がスライスで全くボールが見えない雰囲気で私が最後にフェアウェイの真ん中に飛ばした折の風景も忘れえぬことで多くのギャラリーに面子を保った次第であります。鈴木総理とはロシアとの交渉が行き詰まり当時味噌汁がないと生きていけない人(当時は農林水産大臣)であったため味噌汁を私のホテルで作り3週間モスクワの鈴木先生の滞在しているホテルに届けていた仲にてどんなことにも庶民のように政治を進められたこと尊敬している次第です。
 今迄私が参加した国際交渉は日ソ、日米、日中漁業交渉、国際捕鯨交渉、WTO(世界貿易機関)、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)交渉など多義に亘るが資源交渉の難しさを学んだ次第である。東シナ海漁業安定の日中漁業交渉締結の折には私の提案で中国の人民公社にそのお礼にマイクロバスを3台寄 付したこと夢のような思い出である。
 鈴木総理は日東興業(株)(全国にゴルフ場28ヶ所保有)の創立者と懇意で当時日本で有名な習志野市のゴルフコースで林由郎プロの指導のもとゴルフをレッスン、私も時々お供をさせられたこと懐かしい思い出です。又、その縁で二代目社長と懇意になりジャックニクラウス設計の下関の下関ゴールデンゴルフクラブの理事を私がしていたこと何かの人間の結びつきであります。
 日東興業(株)はその後残念乍ら倒産しましたがその破産管財人が私が親しくしていた日弁連会長、中央大学理事長の阿部三郎先生で債権者代表が私の親友である水上寛治(最高裁検事で弁護士)であったこと人間の巡り合わせに驚く次第です。
山本陽子さんとは昔からの親友で若い彼女のボーイフレンドとゴルフを楽しんでいたが、なるべくフォーカスに写真を撮られないよう付き合っていたこと、その振る舞いを今も忘れられない。
 芸能人としてドラマーのフランキー堺、ジョージ川口氏とも酒、ゴルフ友達であったがドラムを叩くように大きく明るいゴルフをする姿も忘れることが出来ない。
 フランキー堺氏は映画に初出演した折、その映画監督から羽子板をプレゼントされ、その裏面に写楽が描かれていたことから写楽に没頭し、それを映画化するための研究会を結成し同じ仲間として写楽の映画化を図ったこと懐かしく存じます。
 ジョージ川口氏は我が国ナンバーワンのジャズメンでその個性豊かな演奏を何回も聞き感激したものですが、そのゴルフプレイは緻密なシングルプレイヤーで(射撃の名人で東京オリンピックで射撃の国際審判員を務める)そのゴルフの音が忘れられません。

(続く)


2023年8月22日
 私とゴルフ(1)

 2021年8月31日
久野修慈(学員会会長)

 松山英樹プロがマスターズに優勝し、厳しいコロナ禍の中でゴルフファン、国民の皆様に希望と夢をもたらし感動の至りです。
 この優勝を思い老年の私が己のゴルフの歴史を思い浮かべ一筆記してみましたので一読頂ければ嬉しく存じます。
 私は福井県の山奥で生まれたためスポーツと言えばスキー、ゴルフなど頭になく大学入学後も夜遊びにふけるなどスポーツに関心がなく大学卒業後社会人としてゴルフの話を始めて聞いた程度でありましたが入社した会社がアマチュアの神様、中部銀次郎を有した大洋漁業であったためゴルフを知らざるを得なか った環境となり言葉でゴルフを理解した程度でした。
 中部銀次郎の父利三郎はマルハの副社長で有名な下関ゴルフ場を作った人ですがその父と私はマルハ時代同族経営の改革を求めて対立する状況にありゴルフ など全く無視していたことを思い浮かべます。
 ただその対立の中で感じたのは主義原則を守る、引いてはルールは絶対守るということであったと思います。
 ゴルフプレイの中から経営哲学が生まれたのかと思います。
 利三郎氏が私に言った言葉(会社のトップは富士山の頂上で烈風に耐える強さがないと駄目だ)は経営者として私の一生の宝です。
 中部家は戦後最大の同族経営体であっただけにプレイにも仕事にも厳しく対処して居り、ゴルフ人間中部を通して私はその対立の中から事業商売の勉強をしたように思えます。私は当時ゴルフ道具を持たず、最初にゴルフをしたのは芝東京プリンスホテルの中にあった9ホールのショートコースで西武に入社した堤オーナーの秘書をしていた中大後輩の村上君の案内に依るものにて全く練習なしでプレイできたことを覚えています。その後ゴルフに興味もなくマルハの子会社である戦後日本一の船舶エンジンメーカーであった神戸発動機(株)が大赤字で私が28歳の時、上司の英断にて若手社員を育てるため異例にも私が再建を任され神戸の立派な本社の社長室に入った時、豪華な社長室にゴルフセットが多数あったことを覚えています。
 「馬鹿者ゴルフなんかに熱中しているから大赤字なんだ」と思い当時の経営者 を無視し再建に当り社長交代、新社長を迎え再建し、再建5年後復配を実施し、その記念に当時の同社高橋社長から再建感謝としてピンクラブをプレゼントされゴルフを始める気分になったように思います。
 当時ピンクラブは最高のクラブとして評価されていたと存じますが、そのピンクラブで埼玉の名門飯能ゴルフクラブにてプレイした折、150ヤードのショートコースでホールインワンを成し遂げたのも何かの運命と存じます。
 その後、マルハの相談役に就任した白洲次郎氏に出会い、有名な軽井沢ゴルフクラブの理事長、マナーゴルフの神様の教えを受けることになったのが私のゴルフの生き方、更には経営者としての運命を変えたと存じます。
 白洲次郎先生には亡くなる迄約20年間特訓を受けましたが最初に命ぜられた仕事がゴルフを通した小さく大きい人間哲学であったと存じます。
 ある日白洲さんからこう言われました、久野君茅ヶ崎のスリーハンドレットゴルフ場のクラブハウス(当時は会員300人のクラブ)に俺の言うことを書いて張り紙して来るのだとの事であり、その内容はゴルフ場の女性キャディーが退職するがゴルフ場のオーナー(当時の東急五島昇オーナー)はケチで退職金を払わないから会員の皆様で退職金を払ってあげようとの呼びかけ文書であり、同ゴルフ場の理事、白洲次郎同じく川口松太郎(作家)、出光佐三(出光石油オーナー)、牧田與一郎(三菱重工社長)の連名のもとにて私はその張り紙を作り名門ゴルフ場に参り、拒否を前提に支配人と話し貼り付けたことでした。今思えば考えられないことですが白洲次郎氏の人間の生き方、真のマナー、人々への平等な思いを体得したことはその後の私のゴルフ人生、経営者としての生き方を作り上げたように存じます。白洲次郎氏の考えの基本はゴルフ場に働く作業員、キャディーの立場を尊重してこそプレイをする資格があり、金持ちのためにゴルフ場があるのではない、プレイ即人間性の尊重が大切だとのことであったと存じます。その張り紙を見た東急の鬼のオーナー五島昇も鉄の人、その張り紙を剥がさず妥協しなかったことを思えば同じように人間力を感じてならない次第です。その後五島昇氏とテレビ対談した折、東急グループも多くの会社を持っているがその経営評価、在り方について冷酷な話を聞き真の経営者に感服した次第です。その後、白洲次郎氏にお供し日本のトップ指導者とプレイ出来たこと振返って思えば一生の宝に思います。
 当時、軽井沢ゴルフクラブに入会するのは大変な時代にて当時の三井物産(株)の社長が入会希望で白洲先生にお願いに参った折、私は立ち会っていましたが白洲先生が話されたことは同ゴルフ場の入会は三井物産(株)とか社長の資格は関係ないことを告げたこと今では考えられないことであります。又夏の暑い日に田中角栄総理が軽井沢ゴルフクラブでプレイし夏の暑い日であったためトイレのタオルを下げてプレイ中、田中角栄嫌いの会員から総理にはマナーがないので除名すべきと指摘され、即「田中君トイレのタオルを返しなさい」とアナウンスをすると、さすが田中総理、プレイを止めてトイレのタオルを返しに来たあの光景を私は目の当たりに見て、一生忘れることが出来ない思い出であります。その節白洲先生は田中総理にトイレのタオルをぶら下げプレイしたから会員として除名にするという規則はないと言ったこと、それに田中総理が明るくうなずいたこと忘れえぬ人間の生き様でした。

(続く)


2023年7月31日
 久野学員会会長からのご寄稿

清水 正

 白門43会のホームページに連載している三沢充男さんの歳時記「五風十雨」は、先に冊子に印刷して2023年の「新春の集い」の会場で会員に実費頒布したところですが、その1冊を久野修慈学員会会長に贈呈したところ、お礼状とともに氏が執筆された「私とゴルフ」という記事をご寄稿いただきました。 ここにそのお礼状とともに、ご寄稿いただいた記事を数回にわたり連載・紹介させていただきます。

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拝復 連休を迎えご壮健にてご活躍のこと、心からお慶び申し上げます。
 日頃は学員会活動、43会支部の皆様との心の交流に心を砕かれて居られますこと心から感謝申し上げます。その心の結集として随筆集「五風十雨」を此の度発刊贈呈頂き、感偑の限りです。
 ホームページを含め、43会会員の皆様の心の交わりを随筆集に感じ、これこそ純粋な白門の手本だと存じました。今後もこのような心の結びつきが生まれる白門会にしなければと存じます。有難うございました。
 今後共、43会学員の皆様の幸せを願い御礼のご挨拶迄。三沢充男様に宜しく。
 未だコロナ禍、お身体大切に

感謝、敬具
中央大学学員会
会長 久野 修慈

白門43会 支部長 清水 正 様

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はじめに
 白洲次郎氏が大洋漁業(現在のマルハ)に相談役として招かれたのは昭和45年(1970年)11月のことであり、その際、私が秘書に任命されたのですが、私が白洲氏とお会いした時の素直な内容は、次のとおりです。

 「君は私の秘書になる以上、会社の嫌われ者に徹し会社の真実を明らかにし私に伝え、同族経営の改革を進めることでその事で君が嫌われ、君は出世出来ないと覚悟しろ」とのことで、それならばと改革を進めるため秘書を受け私は白洲氏にあらゆる課題を提言し会社の実態、真実を伝え改革を進めた次第です。
 今から53年前、秘書に選ばれ白洲氏と同族経営改革に立ち向かった次第です。
 最初お会いした時、私が申し上げたのは「社長になるなら、なると明確にして頂きたい、それでないと秘書は出来ない」と申し上げた。
 これに対し白洲氏は「俺は友人の中部社長を助けるだけで全く野心はない」と話され、この時マルハの秘書役時初めて白洲氏にお会いし、その前に私はこんな時代遅れの人を相談役にするとはとんでもないと思い反対をしていた人間でしたが、その秘書を引 き受けることになった次第で運命のいたずらでそれから白洲氏と私のドラマが始まった次第です。
 又、当時経済誌として有名な雑誌の「財界」に白洲氏がマルハの社長を受けるとの記事が載り、とんでもないと思っていたのが私の心境でした。当時私は多くの社員、金融機関から支持されマルハの経営改革を強力に進めて居り、反対は反対の強固論者であった。若くして今では考えられない事で首を懸けての闘いであった。その時に白洲氏と出会い白洲氏から英国流のコンプライアンス、ガバナンスを教えられ、それを同族経営の改革の道としたこと経営哲学を白洲先生から学んだこと感謝している。白洲氏が私の伝える会社の真の問題点を役員会で明らかにし、その改革を求めたため私はゴマスリ役職員の嫌われ者となり、その事が逆に白洲氏の信頼を得たこと夢のようである。この面では私も嫌われ者として今迄一貫して来たが、これが白洲氏の遺伝子であったと思う。白洲氏とはあらゆる経営改革を進めて来たがその中でも我が国が造船不況の折、日本ナンバーワンの佐世保造船所(マルハの系列会社で一部上場会社)を四国の大将、來島ドック社長の坪内氏に会社売買したことで、日本で初めての大型会社売買を経験し実行したこと白洲氏がいなければ経験出来ない事業経験であったと存じます。

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(次回から「私とゴルフ」を数回に分けて掲載します。)


2023年6月19日
 桜が丘だより

峯岸 修三

 4月に私の町内会の広報担当から「峯岸さんがウクレレをやっているのを聞いて、会報に寄稿してほしい」との依頼がありました。その記事が先日届きましたので、紹介します。


2023年6月19日
 鹽野惠子展を開催します

鹽野 惠子


 1年おきに開催している個展も10回目になりました。以前より短い時間に対象物をキャッチできるようになったことは感じていますが、それと同時に自分の絵の欠点にも目が行くようになっています。
 体力的には今迄1日に3つのことに集中できたのが、1つがやっという状態ですが、どうしたわけか気分は相変わらず学生気分が抜け切れていないので、今迄通り突っ走っています。
 人物X17 風景X16 花X3 暴走している私をご覧下さい。

 2023/6/26(月)~7/2(日) am11:00~pm6:00(最終日3:00)
 (会場は風通しの良い1Fに変わりました)


2023年6月19日
 桜が丘だより

峯岸 修三

 4月に私の町内会の広報担当から「峯岸さんがウクレレをやっているのを聞いて、会報に寄稿してほしい」との依頼がありました。その記事が先日届きましたので、紹介します。



2023年3月27日
 町田譽曽彦さんが「新日本美術院」の会長に就任されました

三沢 充男


 白門43会幹事の洋画家・町田譽曽彦さんが、この度「新日本美術院」の会長に就任されました。
 「新日本美術院」といっても知らない方もおられるかと思いますが、新日本美術院は、「自由な創作活動を啓発し、会員相互の信頼を第一として、国内のほか広く各国の美術家との交流を通じて芸術文化の発展に貢献することなどを目的」として1968年(昭和43年)に設立された、美術家のための一般社団法人です。年に一度、東京都美術館で公募展「新院展」を開催するほか、年一回の選抜展や全国の巡回展などを行っています。
 現在、日本の美術家団体が開催する展覧会として有名なものには、日展、二科展、院展がありますが、「新院展」との比較のために、簡単にその概要をご紹介します。

・日展……元は文展、すなわち「文部省美術展覧会」です。明治時代の文部大臣牧野伸顕が日本に美術の水準をもっと高めたいという思いで開催しました。その後「帝展」「新文展」「日展」と名称を変えて現在に至っています。日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書の各部門で作品を公募しています。
・二科展 ……1914年、文部省展覧会(文展)の審査に不満を持った気鋭の画家たちが、文展から分離して在野の美術団体「二科会」を結成したのが始まりです。現在は絵画部のほかに、彫刻、デザイン部、写真部があり、一般から公募しています。
・院展……日本美術院が主催する「日本画」の公募展のことで、春と秋に開かれ、秋は「再興院展」と呼ばれています。
・新院展……先にご紹介したとおりですが、美術団体における権威主義を排するということが一つのモットーになっているようです。

 町田さんは中大卒業後、会社勤めの傍ら絵画制作に取組み、これまで二科展には49回入選し、特に第90回(平成17年)の二科展では特選受賞されました(右図「海の追憶」F50号)。この作品は、船体を抽象化した中にランプを入れ、手前には航海地図を配し、船上には自然の幸福を満身に飛ぶカモメを描いた詩情作品で、これまで生きて来た軌跡を船体で表現し、海の荒波や風雨を人生の出来事になぞらえ、雄大な自然からの恵みが夢とロマンを掻き立てるものとして構成したそうです。
 個展も東京・大阪をはじめ各地でこれまで26回開催したほか、フランスやスペインなど海外の展覧会でも栄誉ある賞を受賞されています。また自宅のある上尾市では絵画教室も開いて後進の指導にも当たっておられます。このような町田さんの活躍が認められて、この度、由緒あるこの会の会長に推戴されたのではないかと思います。
 これからはこれまで通りの創作活動や後進の指導を続ける一方で、新日本美術院の会長として会の運営や新院展等の開催に向けた準備など大変なご苦労があると思いますが、(もう歳なのですから)健康に気を付けてご活躍いただきたいと願っています。


2023年3月22日
 大田黒公園へのお誘い

清水 正


 新緑の太田黒公園で日本芸能を堪能しましょう!
 今年の新春の集いで素晴らしい筝曲をご披露いただいた増渕喜子さんが奏でる琴の音を聞きに集まりませんか。音楽家でなつかしい「話の泉」に出演していた太田黒元雄氏の邸宅を記念した「太田黒公園」は新緑の樹木がいっぱいです。増渕さんの琴のほか 津軽三味線や今人気の和太鼓の演奏などが楽しめます。
 鑑賞後荻窪駅周辺で懇親会を予定しております。ふるってご参加ください。

日  時: 4月8日(土) 午後2時集合(演奏会は3時に開演)
集合場所: 中央線 荻窪駅(新宿駅から快速で10分)
お申込み: 清水 正へ電話で  
締切り日: 4月3日(月)


2023年2月13日
 「日本ベテランズ国際柔道大会」の形競技で清家春夫さんが優勝

矢崎 勝


 白門43会副会長の清家春夫さん(柔道八段)が、本年1月21・22日に東京の講道館で3年ぶりに開催された「2022年日本ベテランズ国際柔道大会」(第17回日本マスターズ柔道大会)の形競技に出場し、「五の形」(いつつのかた)で優勝し、見事金メダルを受賞しました。
 本大会は、生涯柔道・生涯現役を実践している30歳以上の柔道愛好家が集い、健康・長寿の交歓を目的として国際柔道連盟(IJF)の主催により開催されるものです。

 大会は、男女の形競技、男子と女子の個人戦が2日間で行われ、形競技は7種目の形(投の形、固の形、極の形、柔の形、講道館護身術、五の形、古式の形)を種目別に2人一組で演武し、5人の審査員が審査します。「五の形」では清家さんが取、受は小池健三(六段)で行い、出場チーム4組の中で、最高点を取り、優勝しました。(右写真:左が清家さん)
 「五の形」は、嘉納治五郎師範が明治20年(1887)講道館柔道の形として制定され、柔道の攻撃防御の理合いを表現し、5本まで作られたので「五の形」と称しています。5本ある個々の技は、名称が無く、一本目・・・五本目と称します。この形は、天地自然の姿であり、その理法をかたどって柔道的に表現した芸術味あふれる形であると言われ、講道館七段の昇格試験の受験科目になっています。

 30歳以上の選手が出場できる日本マスターズ柔道大会は、日本マスターズ協会が主催し、2004年静岡県浜北市で第1回大会が開催され、本大会は第17回大会になります。2014年から国際柔道連盟(IJF)が主催し、主管が全日本柔道連盟、日本マスターズ柔道協会が協力という運営方法に変わりました。大会参加者は約600人で世界各地から来日する30~60人の外国人選手も活躍しています。本大会の参加者はコロナの影響で例年より少なく、日本人582人、外国人9人でした。(2020年度、2021年度の大会は中止)

 清家さんの直近3大会の成績は:
 2017年6月(第14回大会)和歌山県白浜町……五の形(銀メダル)、古式の形(銀メダル)、個人戦(銀メダル)
 2018年5月(第15回大会)愛媛県松山市……五の形(金メダル)、古式の形(金メダル)
 2019年5月(第16回大会)福井県福井市……五の形(金メダル)、古式の形(銀メダル)、個人戦(銀メダル)

 このように清家さんは輝かしい成績を残しています。また、大会のパンフレットに“マスターズ柔道を支える華の70代の皆さん”として紹介されており、75~79歳の出場者で連続出場17回と最多出場を誇ります。また、清家さんは現在日本マスターズ柔道協会の名誉会長(第三代会長)を務めています。
 *尚、日本マスターズ柔道協会の内容と結果等については、日本マスターズ柔道協会のHPでご覧いただけます。ご理解とご支援をお願いします。


2023年1月30日
 マイナポイント

三沢 充男


 マイナンバーカードを新規に取得して申請すれば、最大2万円のポイント還元が得られるという。ずいぶんオイシイ話だと思うけれど、大分前にカードを取得してしまった当方はそんな御利益にあずかることができない(と思っていた)。 以前は住基カード(住民基本台帳カード)というのがあって、車の免許を持っていない当方は、何かの時のために写真入りの住基カードを作って身分証明書代わりに使っていた。だがこれは平成27年限りで更新できなくなることが分かったので、やむなくマイナカードを作った次第である。

 マイナポイントというのは、マイナンバーカードの制度ができたけれど、カード取得者がサッパリ伸びない。そこで政府は、カードの取得促進とキャッシュレス決済の普及を併せた促進策ということでニンジンを鼻先にぶら下げたのである。
 マイナンバーカードを新規に取得してマイナポイントの申請後、キャッシュレス決済を利用してチャージまたは買物をするとポイントを受け取ることができ、利用金額の25%、最大5,000円までポイント還元を受けることができるという。これは2020年9月から始められたが、その後2022年1月から「第2弾」の制度が追加された。
 「第2弾」というのは、2023年2月までの間にマイナンバーカードを申請した人が、取得後、健康保険証としての利用や、公共料金受取口座と紐づける登録をすると、さらに7,500円分ずつポイントがもらえる。最初の制度と合わせると最大20,000円分のポイント還元が得られる勘定になる。
 整理してみると、次のようになる。
1 キャッシュレス決済サービス利用でチャージまたは買物をする……25%のポイント還元(上限は5,000円)。
2 健康保険証として利用申込み……ポイント還元は7,500円
 (*これまでの健康保険証も引き続き使うことができる。)
3 公共料金の受取口座の登録……ポイント還元は7,500円

 メリットが増えれば増える程、早くのうちに作ってしまった当方の「得べかりし利益」の損失感は大きくなった。それで息子と電話しているときにふとボヤいたら、「前に作った人でももらえるはずだよ。良く調べて見たら」という。息子の方は家族3人だからこれからカード作って6万円もらうのだといっていた。そんな気前のいい制度を作って、1億人の国民に1人2万円ずつ散財したら予算が2兆円も必要ではないかと余計な心配をしながらネットで調べて見たら、前に作った人でも申請すればポイント還元が得られることが分かった。
これからカードを作る人は、まず地方公共団体の窓口でマイナンバーカードの申請手続きをしなければならないが、当方のように既にカードを持っている人は政府の「マイナポイント事業」という総務省のサイトにアクセスして、指示に従って手続きをすればいい。

 だが、いざ申請しようとしたら、手続きがかなり面倒なことが分かった。ここで大事なのは、ポイントをもらうためには、先ずいずれかの「キャッシュレス決済サービス」に加入しなければならないことだ。「キャッシュレス決済サービス」というのは電子マネーとか、プリペイドカード、クレジットカード、QRコードとかの機能に応じて区分された決済サービスで、それらの中でマイナポイントに使えるのは総務省のサイトの一覧表に表示されているものだけだ(対象となる決済サービスはこちら)。
 それぞれのサービスごとに使い勝手が違うので、慎重に選ばなければならないが、何がいいか息子に相談したら、paypayがいいという。世の中でかなり普及してきているから使い道が多いらしい。paypayなどというのはこれまで全くご縁がなかったけれど、とにかく2万円もらうために必死になって手続きをしてみたので、その苦闘の一端をご紹介したい。

1 paypay決済サービスのアカウント取得の手続き
・Google Playからpaypayアプリをダウンロード
・アプリを起動して電話番号とパスワード(自分で設定する)を入力
・SMS(ショートメッセージ)で認証コードを受信して、4桁の認証コードを確認する
・受信した4桁の認証コードを入力
・登録完了

 ここで躓いたのは、4桁の認証コードの確認と入力だ。確認するためにはこれまでの手続きから離れて、メールソフトを立上げて、送られてきたコードを確認しなければならないが、そんなことをしていると元の画面に戻れなくなってしまう。スマホを使い慣れていればどうということもないのだろうが、スマホ初心者の当方はそれができない。失敗して繰り返す都度、新しいコードが送られてきてその前のコードは使えなくなる。そして何度目かのときにどういうわけか元の画面がひょっこり現れた。偶然に救われてようやくその認証コードを入力することができ、登録が完成した。
(これは後に、画面左下の縦3本棒の小さなマークを押せば元の画面に戻れることが分かった。)

2 マイナポイント取得の手続き
 決済サービスのアカウントが取得できたら、いよいよマイナポイントを取得する手続きだが、個々の手続きについては私が説明するよりもこちらのサイトを見ていただきたい。サイトでは簡単のように書いてあるけれど、初心者にとってはそんな簡単なことではない。相当に慎重にやらないとおかしなところに迷い込んでしまうので、注意が必要だ。
 paypayでの手続きで注意しなければならないのは、ポイント還元を受けるのは、paypayにお金を「チャージ」したときか、paypayで「支払い」をしたときか、あらかじめ選択しておかなければならないことだ。後で変更はできない。私はpaypayはこれからずっと財布代わりに使う積りなどなく、要はポイントもらうための便法だと考えていたので、「支払い」の方を選んでおいた。

 そんなことで何とか手続きは完了し、2万円もらえる権利が取得できた。早速、スマホのpaypayのサイトの中の「ウォレット」(財布)というところに15,000円分が取得できた旨の表示が表れた。(後の5,000円分は買い物をした都度、その25%のポイントが付く。) これでうれしくなり、ダメだと思っていたのにポイントがもらえるようになったのは息子が教えてくれたお陰だと思ったので、彼に「7,500円分のポイントをプレゼントしよう」と約束した。彼が喜んだのはいうまでもないが、いざ送ろうとしたらなかなかうまく行かない。それでpaypayが使えるセブンイレブンのお店に行ってpaypayのカードかamazonのカードを買ってメールで送ろうとしたが、現物の品物を買うことはできるけれど、現金代わりになるカードを買うことはできないことが分かった。
 しかし、7,500円分送ることは約束してしまってあるので、息子に「あの約束は反故にして」とは言いづらい。それでやむなく、クレジットカードでamazonのギフト券をネットで購入し、メールで送った。 父親の沽券を守るために飛んだ買物をしてしまった次第である。

 さて、実際にpaypayで買物をしてみた。これが使えるデパートでお年賀のお返しの贈り物を買った。paypayのホーム画面のスキャンのボタンを押して、お店のQRコードを読み取る。支払う金額を入力して「次へ」。画面を店員に見せて「支払う」を押す。「支払い完了」の表示が出る。
 別のドラッグストアで日用品を買った。レジで「○○○円です」といわれたので、「paypayで支払いたい」といって、ホーム画面の「支払う」を押すとバーコードが表示される。それを店員に見せ、バーコードリーダーで読み取ってもらう。支払う金額が表示されて「支払い完了」。

 やってみると簡単に支払いができることが分かった。レジの前でお金の出し入れをしなくて済むのが快適だ。マイナポイントでもらった分がなくなったら「チャージ」をして、これからの生活は「キャッシュレス決済」で行こうかな、とも思っている。ニンジンのお陰で政府の思うつぼにはまるのは癪だが、これも時流かなとも思う。


 

2023年1月10日
 箱根駅伝雑感

小塚 正人(応援学部リーダー学科卒)


☆「見えたぞ頂点」 “2強の一角を倒しての見事準優勝”☆

 今年(第99回)の大会前、私の最大の関心事は、①中大の順位は? ➁エース吉井大和君(3年)の区間エントリーと戦績の2点であった。
 以下、それぞれについての感想を申し上げます。
①中大の順位は:
 文句なしの総合準優勝でした。それは往路2位(トップとの差30秒)、復路2位(トップとの差1分12秒)と実に素晴らしい成績でした。
 好成績の要因は、10区間ノーミスであったこと。
 どのチームも出走前アクシデントとブレーキが起きないことを願う。中大はそれがなく、2区吉井大和君(3年)と3区中野翔太君(3年)がそれぞれ区間賞をとり、区間最低順位でも7位にとどまり、全選手安定した好走であった。
 特に駅伝の難所5区の山登りは阿部陽樹君(2年)が区間3位、山下りの6区は若林陽人主将(4年)が区間2位と、真に天下の険を超越したことでした。
 アッパレ!!です。なお、この2人は前回の経験者でした。そして前回ハラハラした10区でも、最初で最後の出場となった助川拓海君(4年)が堂々の区間3位での快走、総合2位を決定づけてゴールインしました。
 翌日(1/4)のスポーツ紙一面に某デパートをバックに日本橋を沿道の両側多勢の観衆の注目を浴びながら疾走する「C」マークのアンカーの雄姿を見て、「中大ここに有り」「名門、復活」を強く感じたところです。まるで中大の広告塔の様な紙面でありました。
 なお、今回の有力紙によるデータ上の勢力図は下位の通りであったが、結果もほぼこの5校で終結した。
  ランクA校 駒沢大→1位 青学大→3位
  ランクB校 中央大→2位 順天大→5位 国学大→4位
 中大はエントリー選手が一人も欠けずに出走できたこと、また往路に1~3年のスピード型を、復路に経験豊富、持久型の4年生を多く配した策が的中し、22年ぶりの表彰台となったのでした。
 レース後、藤原監督は、
「喜びは今日まで。明日(1/4)からまたしっかりやりたいと思っております」
「うちが常勝軍団になるという思いです」
「オリンピック選手も一人でも多く育てたい」
 と、謙虚で且つ頼もしい発言があり。また各紙にもこれが掲載されました。

②吉井大和君の区間エントリーと戦績:
 吉居大和君の区間配置は各校監督(*)の最大の関心事であったが、「花の2区」でのエントリーであった。
 この区間は各校のエースランナーが集い、ここでのタイム差が以降のレースに大きく影響する。なお、藤原監督も2003年大会でこの区間を走り、見事区間賞に輝いている。
 最大の激戦区で、今年は歴史に残る名勝負が演じられた。4位でタスキを受けた吉居君が序盤で直ぐにトップに出たが、途中駒大のエースに追いつかれ、その後も青学大のエースにも追いつかれるも、粘って2人でトップの駒大を追走、遂に3人での並走となり、激しいつば競り合い、デッドヒートを展開した。そして中継所の数百メートル手前でラストスパートを仕掛け、2人に先行した吉居君がトップで3区の中野君につなぎ、見事区間賞を奪取した。
 このような3人による熾烈な競争は58年間箱根駅伝を見ているが、記憶になく、後世に間違いなく語り継がれると思う。
*中大出身の各校監督(順不同)
 東京国際大学…大志田秀次氏、 亜細亜大学…佐藤信之氏(今回出場なし)、
 創価大学…榎木和貴氏、 中央大学…藤原正和氏、 立教大学…上野裕一郎氏

 さて、来年の第100回記念大会ですが、
 今回走った1~5区の往路の選手が全員残り、復路にもエントリーもれした有力選手がいます。加えて今年も有力新人の入学がすでに発表されております。従って、28年ぶりの15回目の優勝の絶好のチャンスと大いに期待しているところです。

 必勝中大! ガンバレ藤原隊
 そして 中央の名よ光あれ

追伸  来年は沿道でも声を出して応援できる大会になることを強く願っております。皆さんと校歌を放吟したい。

グラフで見る各校順位
中央大学の活躍