会員だより —歌代雄七—
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2025年10月
随想127 故郷は、江戸
ことしのNHK大河ドラマは、この10月ともなれば佳境を迎えることになる。ストーリーは浮世絵に花を咲かせたプロデューサー、蔦谷重三郎の波乱万丈を描いたドラマだ。時は18世紀後半、田沼意次が権勢を誇った頃だ。
そんな江戸中期の時代、全国260ほどの藩が江戸に屋敷を構えていた。その諸藩の屋敷が集中する江戸は、全国の政治機能が集中・蓄積された首都でもあり、統治の形態の一つでもあった。その副次的現象として「参勤交代」があった。それは原則として隔年交代とし、石高に応じた人数を率いて出府し、江戸屋敷に居住して将軍の統帥下に入る制度だと学んできた。つまり、大名にとっては拠点である国元はホームであり、江戸はアウェーであり異境との認識のように思えた。
然し、すべての大名が本当にそうだったのだろうか。
八代将軍 徳川吉宗のブレーンで儒学者の荻生徂徠が「政談」で、大名達が「何れも江戸育ちにて、江戸を故郷と思う人なり」と著わしている。これは府内つまり江戸に妻子を置くことが規範であり、大名となる世継ぎ人は少し前までの流行りコトバの「シティーボーイ」、すなわち江戸育ちのシティーボーイが多かった。これを現代に置き換えれば、2世3世議員の殆どが、選挙基盤が地方にありつつも、小学校から大学まで殆どの人が東京在住者だろう。正に千古不易だ。
忠臣蔵で吉良上野介から「この田舎大名が!」と軽蔑された、播磨赤穂藩主の浅野長矩は寛文7年、1667年に江戸鉄砲洲、今の中央区の上屋敷で生まれ育っている。また江戸末期の陸奥会津藩主の松平容保は天保6年、1835年に美濃高須松平家の六男に生まれ、会津藩の養子になった。彼は岐阜県から福島県に引っ越したイメージにあるだろう。が、実際は江戸四谷、現在の新宿区にあった高須藩上屋敷から同じく、千代田区にある和田倉門内にある会津藩上屋敷への移動だった。現代においても、散歩程度の距離しか過ぎない距離だ。かくの如く、彼ら藩主の多くが馴染んだのは国元より江戸だったのだ。
「土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)」、これは元禄時代の大名評判記だが、その中に常陸水戸徳川家は「江戸詰め藩士は行儀よく国元藩士は劣る」とある。また備前松浦家は「江戸詰めは江戸生まれの新参者が多く、藩主松浦鎮信は器量良しを好むので容姿端麗者が多いが、彼らは国元に行くことを嫌がる」と記されている。紀州藩の史料には容姿が劣る者や病人は江戸勤番に任命しなかったことが記されている。
このように諸般の屋敷が集中する江戸では、体面や見栄がぶつかり合う場でもあったのだろう。こうした大名の志向は、藩内の力関係に影響を及ぼし、亀裂を生む要因ともなる。例えば、江戸詰めと国元の藩士との対立を後期水戸学の思想家・藤田東湖が語っている。
「江戸の邸と水戸とは他国の如くなりて、定府の人は水戸の人を田舎者と嘲り、水戸の士は定府の士を軽薄者と謗り、政事の妨げになりぬれば」と。これだけではない。「江戸は御膝下の儀にも御座候間、なんとなく江戸の方におされおされ候勢に相成り候」と、将軍の「御膝下」江戸が国元を押し込んでいると述べている。
扨て、あり得ないことだが若し筆者が当時の大名だったら、これら課題に向き合い、結果は名君と誉れ高き存在になったか、はたまた暗君と謗られ、且つ蟄居を申し付けられ、寺に籠り読経の日々を送っていたか……。
こうしたことを思うこと自体が、自己認識不足だと言われるであろう筆者。
我に返って「平々凡々の日々を過ごすことが何よりだ」と思っていることを隣に座る老女に伝えると、勝手に大名の奥方をイメージして、あれこれ想像を膨らませて話し掛けてくること、くること……。
筆者より質の悪い妄想にとりつかれた女房殿には、白旗を掲げて吾、安息の場であるトイレに駆け込んだ……。
2025年9月
随想126 米・コメ・こめ
新米の季節になった。日本人にはなくてはならない「コメ」が、昨年から市場で品薄の状況が続いた。それもあってか「こめ」の価格が暴騰を重ね、騒ぎが大きくなり、令和の米騒動とも言われているが……。
その昔から、飢饉や買い占めなどにより「米」は騒動のもとでもあった。
時代は江戸時代、1860年代に大商人や米屋を襲う「打ちこわし」、その30年前には大阪で大塩平八郎が率いた反乱。更にはそれ以前の桃山時代には百姓一揆、戻って明治時代にはシベリア出兵に当たって、米の買い占めなどによる各地での暴動など、コメにまつわるよからぬ歴史がある。
そんな大事なコメについて、long long ago更にそのonce upon a timeの日本の「米」事情を探ってみよう。
先ず、日本は狭い地域で米を生産するが、欧州では広い敷地で小麦を生産する。この違いは何だろうか? この大きな違いの一つがコメとムギの生産効率の違いだ。意外と思われるだろうが、単位面積当たりの収穫効率は米の方が高いのだ。
加えて、欧州での小麦生産は三圃式(さんぽしき)農業と言われ、土地を休ませながら3年に1度のローテーションで生産している。一方、日本での田んぼは毎年連作状態で稲を育てることが出来る。それ以上に稲の収穫後に小麦を栽培する二毛作が、その昔には関東以南ではよく見られる光景だった。
もともと、稲は温暖な熱帯地域の作物であったが、その熱帯地域は他にも食料となる作物はたくさんあり、稲に固執する必要性は薄かった。一方、日本は米生産の北限でもあり、他に主食となる作物がなかったことから、必死に栽培技術を磨き、手間をかけ、近隣との協調性を図りながら主食としての位置づけを固めてきた。このことで醸成されてきたことが協調性であり、日本人の良き文化、民族性が育まれたのであろう。
では、その稲はどのように。
先ずは中国の作物文化を大まかに見る必要があろう。
その中国では遠い遠いその昔、北方では畑作文化、つまり大豆や麦類を中心とした黄河文明、南方では長江文明が稲作文化を結実させた。紀元前5世紀になると気候は寒冷化し、北方の人々は、農業適地となる暖かな地域を目指すことになる。当然、争いごととなり、南方の人々は押され、追い出されて、より良い土地を求めて彷徨うことになる。
これら争いに敗れた長江文明の人達は、山岳地帯に落ち延び、険しい山の中で棚田を造ってきた。そして別な難民は海を渡って日本列島に漂着した。時代は縄文後期から弥生時代が始まったころだ。日本の稲作の広まりに彼らが大いに貢献したことになる。
一方、日本で田んぼ面積が急激に増えた時代は戦国時代だ。当時、多くの戦国武将は、防衛上の視点から山に囲まれた盆地に拠点を置き、城を築く傾向にあった。
然し別な理由もあった。稲作は当然のことながら、水がキーポイントだ。山間地方は山から沁み出す水を利用しやすいポジションにある。加えて築城の技術は「棚田」造りに応用された。築城の土塁技術は畦を造る技術へ、城造りは石垣を組む技術へと応用が広がった。
時代は下り、平和な江戸時代の到来となり武力で領地の拡大が望めなくなった。そこで、全国の大名はこぞって新田開発に乗り出し、コメの生産を増やしてきた。その背景は、米は単なる食料に止まらず、貨幣の代わりでもあったからだ。そしてコメの生産が増え、経済的に豊かになる元禄文化を迎え、米将軍と呼ばれた徳川吉宗の時代には米が余り始めた。当然、貨幣の役目もしていた米の価値は下がり、インフレとなり、享保の改革を迎えることになる。
日本での「米」歴史は、食料あり、貨幣でもあり、そして時代を動かすエポックメーキングの存在でもあった。
話題が大きく変わるが、筆者30代の頃、社内で隣の島の席の女性が周りの人達と「米米 クラブ」とか話す声が聞こえてきた。最初は米どころの出身者の会、もしくはお米スキスキの人間の集まりの会かと思っていた。さにあらず、後にロックバンドだと知って驚いたが、どんな動機で命名したか知りたくなったことを覚えている。
扨て、お米の料理は多々あれど、あなたはどんな料理が一番お好きですか?
白飯に卵、シンプルで良いですね、シンプルと言えば昨今、多様なおにぎりも人気です! 単純に米料理だと分かる雑炊、おかゆ、炊き込みご飯、そして海外から伝わってきたチャーハン、ピラフ、リゾット、ドリア、パエリア、そして韓国のビビンバ、少し手の込んだものとして同じ韓国の参鶏湯などがある。他に米国のジャンバラヤ、英国のケジャリー、イタリアのアランチーニ、そしてインドではビリヤニが有名だ。
筆者が一番好きなコメ関連の料理は寿司だ。熱いお茶で喉を潤し、赤味のマグロからスタートし、カッパで締める。特に漁港に近い寿司屋で食するのが一番の楽しみであり、至福の時だ。……しかし最近、夢を見た。海岸に近い寿司屋で満喫感を味わっている折に南海トラフで津波が襲来した。逃げ遅れて、寿司屋ごと海に流され、波にもまれて体は粉々になり、マグロの「えさ」となる悪夢だ。まぁ~それも良しか! 供養もせずに散々マグロを食べたのだから…
2025年8月
随想125 かき氷
夏の風物詩でもある かき氷、昨年も猛暑だったが今年も同様だ。
「かき氷」と記した看板や小さくたなびく幟を見ると無性に食べたくなり、暖簾をくぐることになる。今月のお題は、その「かき氷」としました。
その歴史と現状を探って、多少の涼感を感じてもらえれば幸いだ。
日本で最初の本格的なかき氷店の開業は、今から150年ほど前の明治2年(1869年)だ。場所は横浜の馬車道通りで、開業者は米国で氷の製法を学んだ日本人だ。何と、最初は一片の氷を水に浮かべたものだったが、2時間待ちの行列が出来たそうだ。
では氷をどのように手当てしたのだろうか。
当初は日本には氷の大量生産・大量輸送の技術はなく、米国ボストンから天然氷を船便で輸入していた。輸送中の目減りが多く、日本に到着したその氷は当然高くなり、庶民の手に届くものではなかった。
そこに目を付けた実業家の中川嘉兵衛は、1861年、富士山麓や日光、釜石、青森で採氷を試みたが、70年に我が故郷の北海道函館市にある五稜郭の外堀から切り出した天然氷の商品化に成功した。これら氷はボストン氷より品質は高く 安いこともあり、天然氷の採氷・販売業者が勃興して各地の店に並ぶようになった。因みに中川は日本で最初の牛肉食を広めた人物でもあり、冷食のニチレイのルーツを創った実業家でもある。
こうして、国産天然氷が市場を席巻する中1883年、日本人による初の機械による製氷会社「東京製氷会社」が発足し、天然と人工との戦いの火ぶたが切って落とされた。
その論戦はこうだ。人工氷側は「天然氷には見えない汚物が交じっている」。対して天然氷サイドは、製氷機には冷媒が必要で、それにはアンモニアが使用されることから「機械氷は人体に害がある」とキャンペーンを張った。
然しこれらネガティブキャンペーンは、宮内省が「宮中に納入する氷は機械氷に限る」としたことだ。この背景は1887年頃に、後の大正天皇となる皇太子が東京製氷の工場を訪ね、観賞用に花を入れた「花氷」を明治天皇への土産としたことがきっかけとなった。
一方、明治初期の頃のかき氷は氷を鉋(かんな)で削るだけだったが、明治中期になるとかき氷機が発明された。構造は鉋状の刃がついた台座で氷の塊が回転し、氷塊を繰り下げて、薄く削れるものだった。
昭和に入り、高度成長期に入り、かき氷は家庭の夏のおやつとなった。1961年には冷凍室付き電気冷蔵庫の普及により氷生産のピークを迎えた。一方、家庭用かき氷機の製造分野に新規参入が相次いだ。こうした状況を背景に、明治屋が初のかき氷用シロップをイチゴ、レモンを発売したのが1966年だ
扨て、かき氷のトレンドは、ブロック氷を削ったフワフワが中心だった時代から、1970年代以降はキューブ氷を回転させて削るジャリジャリ・タイプが主流となった。そしてここ10年は天然氷を薄く削り空気を含ませたかき氷が主流となってきた。昨今は街中のかき氷では、上に果物などを置いたデコレーションの華やかなかき氷がテーブルの上に乗るようになった、その値段も2千円だ、3千円だとオーダーを躊躇する品が出てきている。
冷たいものが、昔ほどの速い時間で食せない筆者は、最後まで口にすることなく、一定の時間が過ぎると側にいる人が、残る半分ほどを口にすることとなる。
一方、繁華街でのかき氷は「映える」ように、長大モノやゴテゴテと果物を載せたものが多くなり、オーダーする気が失せてくる。一緒に席に着く家族は、競ってオーダーするが、家で作れば安価にできるぞ、はたまた地元の回転すしに行けばたらふく食せるぞ、と心の中で叫ぶが、当然その叫びは彼女らには届かない…。
2025年7月
随想124 末期の水
わが国では臨終の際に死に水、所謂、末期の水をとることが多い。
今月は新盆にあたる月でもあるので、こんな話題で…。
先ずはお盆から。ご案内の通りお盆とは「仏説盂蘭盆(うらぼん)経」に由来している。民間行事としてのお盆は、基本的に精霊を迎え、祀り、送るという魂の祭りとされ、ご先祖さまや亡くなった大切な方に思いを馳せる時でもあろう。
話を戻そう。末期の水は、仏教的には「遊行経」に説かれる「釈迦が臨終の間際に水を求められたとき、雪山に住む鬼神が、八種の浄水を鉢に盛って奉上」したとある。この故事に由来して臨終の作法とされてきた。つまり臨終の間際、あるいは直後の人の口を水で潤す儀礼となった。
一方、この行為は医学的にも理に適った対応であり、終末期の生存期間中に行うべき処置として、根拠があると聞く。終末期の口渇の主な原因は脱水だ。この時期の口からの水分や栄養、塩分(ナトリウム)の摂取量は減ることが多く、体の中で生成される代謝水が減少することがある。改善の為、輸液が有効とされてきた。然し昨今の研究では、臨終までの期間が短い患者ではその有効性に根拠は十分ではないとの見解もある。
因みに日常、一般成人の標準的な水の大まかな代謝量は次の通りだ。
体内への水分の取り込みは、大人での1日平均は2,400ml。内訳は飲料水1,000ml、食事摂取で1,100ml、更に、それぞれの栄養素が体内で燃焼されるときに、生成されるエネルギーと水分のうちの水分を代謝水と言い、その量は1日300mlもある。一方、体外への排出量も2,400mlで、その内訳は尿 1,500ml、便 100ml、呼気300ml、そして汗が500mlと一般的には入出の量は一定だ。
尚、この口渇に対して、輸液をおこなわずに口腔の清掃、患者の好みに応じた食事、氷片を口に含むなどの口腔ケアを行った患者の3分の1が、のどの渇きを感じなかったとのペーパーがある。
末期の水から話は展開したが、脱水以外の口渇の要因は、口内炎、口呼吸、緩和医療のために用いる薬剤、全身状態不良なども口渇を促進させる。口腔ケアは口を湿らすだけではなく、好きな食事や食べやすいものを用意することも立派な口腔ケアでもあろう。
その昔、友人に「末期の水」はいらないから、その折は酒を口に注いでくれというご仁がいた。その彼、筆者を下戸と知って、君は甘酒ぐらいならいけるだろう、ときた。あくまでも死に水は、アルコールを含む世界から彼は離れられないようだった。肝硬変を患って逝って久しい彼の末期は、なんであったのだろうか?
筆者は、家族にその折は甘味を含んだカルピスウォーターで良いと伝えているが、どうなることやら…。
2025年6月
随想123 お鳴り
このタイトルを外国語で記せば、発音も含めては次の通りだ。
ラテン語系の「フランス語」ではpet、発音は「ぺ」、「スペイン語」でpedo「ペド」、「イタリア語」でpeto「ペート」、そしてゲルマン語系の「英語」ではpoot「ポーツ」、と、ご覧いただくように、発音は日本語での「ぱ」行だ。英語では他にpass gas、break wind、fartの表現もあるが……。
そして中国語でも「ピィー」と発音し、これまた不思議と「パ行」だ。文字で記せば「屁」だ。因みに、英語と同系統のドイツ語ではfurz「フルツ」と、「ぱ」行ではなく、日本語での発音「へ」と同様に「は」行だ。
回りくどくて恐縮だが、「お鳴らし」を略したのが「おなら」だ。
もともとの「お鳴らし」は、「女房詞(ことば)」で「屁」よりも上品な言い方だ。つまり室町時代初期の頃から宮中に仕えていた女房たちが使っていたものだ。因みに、女房言葉として現代まで残っているのが、「おひや(水)」であり、「おでん(田楽)」もそうだ。そして雑炊を「おじや」、土産を「おみや」、更に「おから」、「おにぎり」、「おつむ」と、まだまだある。
どうでもいいことだが、元来は屁のうち音が鳴ったもののみが「お鳴らし」であるため、音のしない屁を「おなら」と表現するのは間違いらしい。時代が下って、これら音のしない屁を指す「すかしっ屁」という表現ができたのは、江戸時代だとされる。一方、屁をすることを「屁をこく」、「放屁する」、「屁を放(ひ)る」、と言う。「放る」とは、古くはこのことを「鼻ひる」といい、「鼻嚏る」と書いた。つまり体液全般を体外へ放出することであったようだ。また、屁に関する慣用句や俗語としては「イタチの最後っ屁」(追い詰められた時の必死の抵抗やあがき)、「屁の突っ張りにもならない」、「屁とも思わない」、「ヘタレ(屁垂れ)」などがある。
扨て、おならが出過ぎるのは肛門括約筋の麻痺だとされるが、「屁」に関しての有名人は早稲田大学の創設者大隈重信だろう。彼はあまりに出過ぎるので、入院して放屁の数を勘定させ、統計を取らせたとの由。他にもいる。狸親父と称された徳川家康だ。彼は諸大名出仕の前でプッと一発、屁をこいた。諸大名はおかしくてたまらぬが笑う訳にはいかない。そこに水戸公が進みでて、「天下泰平(屁)でめでたい」と褒め、一同これに感じ入り、徳川大名家は文武両道と放屁術を学ばねならぬ、となった、とか? 「講釈師、見てきたような嘘を言う」ではないが、タイムスリップをしていない筆者、この項は責任が持てませんので悪しからず…。
扨て、放屁には柔道の如く術が多々あるそうだ。それぞれの意味合いは、各自でご想像いただくとして、基本形は「一発勝負」、「すれ違い屁術」、「4連発」、「はしごっ屁」、「アブの笹渡り」、そして最高は「梅古木」と呼ばれる術だそうだ。
この最後の術だけは大まかに示しておこう。
初めプーッと太く大きくやって、梅の幹をつくり、次にプーッ、プーッと細く長く小枝を出し、更にプッ、プッ、プッと梅の花と蕾をそえる、水墨画の技法に似ていると聞くが…。
ところで、放屁について真面目に著した人物がいるのをご存じだろうか、時代は江戸。日本のダ・ヴィンチと言われた平賀源内が「放屁論」として著している。時代は下って、旧5千円札の肖像として馴染みの新渡戸稲造博士の奥さんは米国人、その妻の屁に新戸部は悶絶した、と学者で評論家の高島米峰は記している。
扨て、さて、5年前のこの随想No65にも、そのものズバリ「おなら」と題して記したことがあった。読者から見れば、筆者はこうした類の内容に強い興味を抱いていると映ることだろう。確かに興味はなくはないが、当方にも事情があった。最近とみに、筆者の放屁は、進軍ラッパの如く、加えてニオイはスカンクやイタチの放出の如く。周りは迷惑千万と宣う状況だ。故もあり、女房殿からは当面ヒトとの接触禁止令が出た次第だ。こうしたこともあり、いろいろ調べる中で資料が集まり、筆が勝手に走りだし、今著となった。
この短文の拙著、ここまで目で追って頂いた読者には文字通りのお目汚しとなり、筆者を忌み嫌い、更には蔑すむことは当然のことでしょう。そうした中、お願いがあります。
これからは、はるか上から見下されることは覚悟のうえですが、従来通りのご交誼、よろしくお願い致します。
必ずや次回は、多少真面目なタイトル、内容にいたしますので、重ね重ねの尾籠な沙汰や仕儀に、ご寛恕の程……。
2025年5月
随想122 歯科医師
2022年、この日本で歯科医師の数が対前年度に比べて初めて下回った。
扨て、駅周辺に商店街をもつ街並みで見渡せば、歯科クリニックの看板を四方八方で目にする。ではその数はとなると、24年9月末で、コンビニ店舗数より多い約6万6千施設だ。当然、競争は激しく、中には歯科医師仲間の組合費が払えない施設もある哉に仄聞する。今月は、そんな歯科医師を取り巻く環境の中を散歩してみましょう。
そもそも歯科医療は、中世の欧州で虫歯を抜く技術から発展し、他の医療とは異なる歴史を歩んできた。近代に入って、米国で大学の医学部とは別に歯科学校が設立され、医師と歯科医師とは別々に育成される仕組みが世界に広がった。
日本での最初の歯科医は、大分・中津の出身で医学を修めた人物が米国人歯科医に師事した後、銀座で開業した人物だ。彼は明治7年に国家試験合格者第1号だ。それから約150年後の今日、歯科医師は約10万5千人と全体的イメージは多すぎの感がある。但し、都会と言われる地域では人口10万人当たりの歯科医師の数は、東京都の120人に対して一番少ない滋賀県の59人とは2倍以上の格差がある。
つまり歯科医師、歯科医院の偏在が課題となっている。更に挙げられるのは、半径4km以内に歯科医院がないなど診療を受けにくい地区は、山間部を中心に全国で1200か所以上もあり、まさにそれを象徴する数値だ。
では、歯科医師を育成する教育現場はどうであろうか。
この日本は1970年代、戦後の貧しい時代を乗り越えて食生活は豊かになった。その結果、子供は砂糖を含む甘い菓子を食べる機会が増えた。一方、歯磨きの習慣付けなど虫歯予防が遅れた結果、歯科大学などの入学定員を短期間で約1千人から約3千人に増やすことになった。結果、歯科医師の過剰が指摘され1987年に旧文部省が定員を約20%削減の目標を打ち出し、98年には旧厚生省が更に10%削減の方針を打ち出した。現在の歯科医師の国家試験の合格者は年約2千人時代が続いている。
一方、1970年代に働き始めた歯科医師の世代の多くが70歳代以上となり、年間約3千人が引退し始めており、差し引き毎年約1千人程度が減り続けている。
そうした中、歯科医師の年収は1千万円前後と世間一般からは必ずしも高いレベルとは言い難い。これから超高齢化社会に向かって歯科医師の世界では、専門領域に分化するスピードは速くなるのではなかろうか。例えばハイレベル治療、ホワイトニングなどの審美系や矯正、訪問診療、更には口腔内ケアーとして歯周病治療や誤嚥性肺炎の予防などに向けた専門性の確立や領域確保が進めば、歯科医師の将来は明るいだろう。扨てさて、このように歯科医師の今後には如何なる世界が待っているのだろうか? 部外者としても興味津々だ。
筆者は15年ほど前の在職時に、人に勧められインプラントを4本入れた。
紹介された歯科クリニックは、勤務地に近い東京、青山の一等地にあり、医院長はドイツでインプラントを学んだという。治療を終え、言われたことは「半年に1回、必ず定期の検診・受診を」と…。
忙しさにかまけて受診しないまま、5年後には郊外での蟄居の身となった。
その後にインプラントが抜けたので、電話で直して欲しいと伝えたが…。
返ってきた答えは、定期検診の履歴がないので、導入時とほぼ同様の費用が必要と。「ヒェ~」と声をあげ、「考えます」と伝えて電話を切った。
気分的にも、距離的にも通うことに抵抗感があったことから近隣にある大学病院にての同様な再治療となった。その後は、外れても無料での医療が長く続いた。この違いは何だろう。誠意なのか、はたまた大学病院としてのプライドなのか、兎に角これ程の違いがあった。
しかし、外れる事象が何回か続き、誠意の果ては再々度の高価なインプラント治療へ。
吾、右上奥からの4歯、たかだか並びで5センチ程に。当初からの投入累計金額は、車体全長4.5m、車重1.5トンほどの1台分。鳴呼!!! 何ともはや…。
今回のテーマは「歯科医師」事情だったが、エピローグは筆者の「歯牙エレジー」となり、
恐縮至極!!!
2025年4月
随想121 20億人
生活に必要な水を確保できていない人は世界で多数いる。その数は20億人だ。
その多くはアフリカ、インドなどで、世界人口の約3割が管理された水を使用できない状況にある。これら地域は、他の地域に比べて人口増加率が高く、今後、こうした地域で多少の浄水場施設の設置が進んでも、益々水不足の対象人口が増えることになろう。
方策として、当然無尽蔵にある海水に目が向く。既に海水淡水化の技術は一定のレベルに達しているが、生成される水量は1日当たり1億立方メートル。単純計算では、4億人分ほどの量でしかない。
その技術は逆浸透の原理を生かした技術で、濾し出すように真水をつくり続けるためには高い圧力が必要であり、当然動力となる電力が必要である。水不足の地域では概して電力事情が厳しい環境にある。
然し、その課題解決に向けて今や日本の大学と法人が世界から脚光を浴びつつある。その大学名は東京科学大学(旧東工大)、また企業の1社は大阪大学のスタートアップで核融合発電を目指すエクスフュージョン社だ。両者が開発した基礎技術の最大の特徴は電力がほぼ不要だという点だ。
仕組みはこうだ。ポイントは錫を使用することにある。太陽の集光熱で錫を摂氏300度まで加熱し、錫に海水を直接吹き付ける。これにより水分を蒸留し、真水となる。一方、海水中の鉱物であるリチウムやモリブデン、マグネシウムなどが分離抽出され、リチウムは核融合炉の燃料や冷却に使用される。
単純にプラント内の原理はこうだ。海水は、浸透圧発生剤が溶け込んだ液と海水の間に東洋紡などが製造するFO膜を置くと、海水側から水分子が膜を通って溶液側に集まってくる。溶液は、加熱すると発生剤と分離して真水が得られる。このように新方式では、真水を分離させる発生剤と独自の膜が必要となる。その発生剤は日本触媒が、膜は東洋紡の関係会社東洋紡エムシーが担当している。
この2025年には実証装置を拡大させ、冷蔵庫大からコンテナーサイズと規模を拡大させるスケジュールで進んでいる。そのコンテナーサイズで1日当たり1立方メートルの真水ができ、5人が生活に必要な水を確保できる見通しだ。
一方、米企業との共同開発で大規模プラントを開発し、23年に1日500立方メートル水を海水から作る実証にハワイにて成功している。これから先には、その12倍の1日6,000立方メートルの規模を計画中だ。
この規模のイメージとしては、小学校の標準プール規模の大きさは横16.5メートル、長さ25メートル、深さ1.3メートルで540立方メートル、54万リットルの水量となる、
太陽の熱を使って真水をつくる日本の造水技術が、世界の水不足を解決する日も近いだろう。但し、先記の地域では、まだ課題を残している。
それは経済的な面から、水道管の敷設が芳しい状況ではないことだ。
扨て、プールと言えば……。25メートルもまともに泳げない筆者、今は昔だがジムに通って水中歩行を重ねた時期もあった。併せて当該の教室で、エアロビックスで汗を流し、併設されている風呂に入って爽快感を味わったものだ。
然し、今やそのエアロはきつく感じ、場所を地元「市」の援助を受けた老人体操教室に変えた。その教室で多少汗を感じ、帰宅し我が家の湯船で身を沈め、目を瞑る。ジムの風呂をイメージして浸たり、時折プールを歩いたつもりで足をバタバタさせて……。
年相応の生活パターンとなったが、なんとも安上がりの日々だろうか……。
2025年3月
随想120 八
今月は3月、節目の月だ。大半の企業は決算期を迎える。行政機関に於いてもそうだ。
そして個人に於いても、一定の人が「卒」を迎える。
その折に、当該期間は意義があり、幸せだっただろうかと、一瞬でも追憶ワールドに迷い込む人が多い。
ここで蘊蓄を一つ。
その昔、幸福と幸運は同じだと考えられていました。英語で幸せを意味するHAPPY。その語源となるHAP は、偶然や運という意味。いいことが、運よく起こることがHAPPYだったのです。
その言葉が生まれたときは、幸福は運のいい人がなるものだと考えられていたのでしょう。ところが、今は違います。
幸福と幸運は、別のものだと考えられるようになってきました。
では、今月はその幸運について記してみよう。
ところで、あなたにとっての「幸運の数字」は幾つありますか?
ここで記した「幾つ」には、筆者は二つと応えます。
筆者のそれは数字の1桁台の7,そして8の2つの数字に興味があり、若い時からゲン担ぎをしていた。その中でも「8」の方が「好き」の度合いが高い。
今回のテーマは更に絞って、その最高に興味のある「8」にまつわる事項に触れてみたい。
日本神話には「八百万神(やおよろずのかみ)」が登場し、古来より「八」という数字が「多数」の象徴として代名詞のように使われてきた。
大阪の物流を支えたインフラを「八百八橋」、また江戸城下の繁栄ぶりを「八百八町(丁)」とも表現してきた。
また「嘘八百」という成句があり、粋な古川柳に「嘘よりも八丁多い江戸の町」がある。
将棋の名人、羽生善治さんが好む熟語に「八面玲瓏(はちめんれいろう)」がある。あらゆる角度から見ても透き通り、曇りのないさまを意味すると辞書は記している。
八面と記せば、忙しく活躍する姿を「八面六臂」(はちめんろっぴ)」とも表する。
読者も他に八の付く4文字熟語を数えてみて欲しい。
筆者が思いつくまま列記すれば…
八紘一宇、八方美人、四苦八苦、七転八起、岡目八目、四方八方……
4文字ではないが、口八丁 手八丁、鬼も十八 番茶も出花……
三種の神器で八咫鏡……
因みに先に記した筆者の好きな数値のもう一つ、 「7」 についても触れてみたい。ラッキーセブン、筆者とは距離があるパチンコでは「777」、更に流布されている語句として、世界には七不思議、七大陸、そして七福神、虹は七色、芸能ではオクターブはドから始まる七音、ジェームズボンドの「007」、日本では七人の侍等など。そしてなんといっても筆者の名前には「七」が付くことから、極めて単純に「7」が好きだ。
扨て、さて「8」に戻ろう。
その昔、我が8歳の紅顔童子(?)の頃の記憶は殆どない。と言うことは今年80歳を迎えた筆者は、記憶がはっきりしてから初めて一番好きな歳を迎えたことになる。然し 何するでもなし、精々近所を散策することで円満具足を感じるこの我が身。名聞利養はとうに消え失せた今、これからは、何を求めたらよいのか……。
2025年2月
随想119 迎えた新春は?
年が明けて、早1か月が過ぎた。
あなたは、今年もどのようにこの1年を過ごすか、思いを巡らされたことでしょう。
考えてみれば、2025年は21世紀に入って四半世紀が過ぎたことになる。
振り返れば、我われの少年、青年時代に目にした手塚治虫の鉄腕アトムは、2003年に誕生させ、ロボットの時代の到来を予言した。また、映画ブレードランナーでは、2019年にレプリカントと呼ばれる人間そっくりの人造人間が社会に潜伏し、その行いから2022年には人造人間の製造禁止令の発布が映し出されている。然し、現実は社会を含めて御存じの通り、政治も経済もまだまだ不確実性の中にある。
扨て、科学は長足の進歩を遂げているとのことだが、これからどんな時代を迎えることになるのだろうか。しかし、どんな時代を迎えてもこの地球には変わらぬことがある。
それは我われを乗せた地球号は、1年で9億4千万kmの宇宙を旅していることだ。
この数字は、地球が太陽の周りを1周する距離だ。この速度は秒速約30km、マッハ90ぐらいだ。そして人間を含めた哺乳類は振り落とされること無く、息をし、生活を続けている。
息する哺乳類、昨今は気候変動に負けそうになっているが、元気に心臓の鼓動を続けて欲しいものと、唯々願うのみだが…。その心臓はドクンと脈打つ、つまり心臓がポンプとして全身に血液を送り出していることを心拍と言うが、その数は一生の間に打つ回数を数えてみると、哺乳類はどんな動物でもほぼ同じ回数だ。
例えば受精後19日で生まれるハツカネズミの寿命は2年強。一方、650日の妊娠期間を経て生まれる象の寿命は70年強、但し一生の脈拍累計数は双方とも、ほぼ一緒だ。
言葉を変えれば、一般的に体が大きい動物ほど1分間の心拍数が少なく長生きで、それと反比例するように、体が小さい動物ほど心拍数が多く、寿命が短い。動物の世界にはこのように、心拍数と寿命の間に一定の法則があるようだ。因みに心拍数は一生で約15億回と言われ、少ないほど長生きができるというわけだ。
例えばハツカネズミは、1分間に600~700回も脈を打つ。1回の脈拍に、たった0.1秒しかかからない。逆に、体の大きなゾウは、1回の脈拍に3秒もかかる。
この脈拍1回にかかる時間を「心周期」というが、この心周期が違えば、呼吸のペースや食を口にしてから消化、排泄するまでの時間など、生きる上での所要時間がそれぞれ異なるということになる。
では、同様にヒトに当てはめると脈拍数15億回というと、約27歳で寿命を迎えることになる。多少、次元は違うが、確かに頷ける数値がある。
日本の平均寿命を時代と共に見ていくと、石器時代は15歳前後、古墳・弥生時代は10~20歳台、飛鳥・奈良時代は25~33歳、平安時代は30歳と言われている。そのヒトは、現代になって長寿を手にしているが、その理由は医療や文化の発展などからだろう。
現代を生きるあなたは、自然の摂理より3倍もの期間を生きているのだ。
今、健康に不安のある方、希望が持てない方、それは贅沢な悩みですぞ!!
1年程前に心臓手術を受けた筆者、今生きていることに感謝しつつも……。
『神様、許されることでしたらあと30数年程寿命を延ばしてください!!』
そうなれば、ギネス最長寿記録を更新できますので……。
えェ‥『だめです』か!
そうですよね、
80年もの間、無信仰を通してきたものには御利益は与えられませんよね!
分かります、神様のお気持ちが…。
こうした愚問愚答を自ら重ねて、筆者の正月が今年もスタートしました。
2025年1月
随想118 沽券
あなたが「沽券(こけん)に関わる」、と在職時に個人や所属機関を守るため、この言葉を発したことは何回もあったことでしょう。名誉や体面に差し障りが出るという意味で使われる慣用句だ。
然しこの沽券、名誉や体面を意味するが、もともとは別な意味を持っていた。
江戸時代、町人による市街地の不動産売買の証文を「沽券」と称し、所有者の権利を保護する機能を持つようになった。
元々は不動産の売買証文であり、言葉としては平安時代から存在していた。然し、現在の登記に通じる「権利を第三者に示す」機能を備えたのは江戸時代からだ。
江戸時代の前までは所有権の略奪がまかり通っていたが、一定の平和が訪れた江戸時代には「登記」の機能が確立してきた。明治5年、1872年には沽券の流れをくむ「地券」が登場し、併せて司法書士の前身である「代書人」が誕生している。この地券、単純に所有権を示すだけではなく、それまでの年貢に変わって土地に課税する動きとも結びついた。
その代書人は法的な文書の作成を担う存在だった。その当初の業務はもっぱら裁判の訴状作成だった。代書人が土地に関する文書に関わるのは、1886年に登記法が整備されてからだ。
昨年、2024年4月から相続登記の申請が義務化され、期限は3年以内に済ますことが明記された。正当な理由なくして申請を怠ると10万円以下の過料の対象となる。振り返れば、バブル崩壊後全国的に地価は下落し、更には2008年からは人口減少が本格化した。つまり不動産の需要が落ち込み始め、相続登記への関心も一段と薄れたことで未登録件数が増えてきたのだろう。
そうしたことから価値が高いとされる不動産は、ほんの一握りの都心の土地であり、他のエリアの不動産は管理に費用や手間がかかる構図となっている。
つまり多くの不動産は、かつては資産としてのイメージが強かったが、昨今では、一部の物件では負債としてイメージが多くなってきた。
筆者も親から受けた尺寸之地を故郷に持つが、不動産屋に確認したところ二束三文の宅地、対する税金や委託する草刈り代は馬鹿にならないものだ。
然し、親が苦労して手に入れた土地を簡単には売却もできず、悩むこととなっている。こうした中、子供たちからは面倒なことは御免だと、早期の売却を望まれている。親と子に、挟まれた心情を理解できるのは、我々世代が最後なのだろうか…。
面倒なことから逃避したい気持ちはやまやまだが、何れ結論を出さねば…。
星になるまでは、人間悩みは尽きないことを改めて認識するこの頃だ。