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2021年12月
  随想81 ひまわり

 夏はとっくに過ぎたのに、今回のテーマは「ひまわり」。
 理由は、先日街中で映画「ひまわり」のテーマソングが流れていたからだ。1970年末に封切られた「ひまわり」、主演はマルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンからなるイタリア映画だ。
 主題曲を手掛けたのはイタリア系アメリカ人で、シャレードやムーンリバー、グレンミラー物語などで馴染みのヘンリー・マンシーニだ。つまりイタリア閥による映画だった。物語は何とも切ない映画であり、戦争で運命を翻弄させられた主人公、見方によっては反戦映画だったとの記憶がある。当時、この映画を見た方も多かろう。改めてビデオを借りて観てみた。

 第2次世界大戦下、ソフィア・ローレン演じるジョバンナとマルチェロ・マストロヤンニ演ずるアントニオはナポリの海岸で恋に落ち、結婚をした。然しアントニオはアフリカ戦線に向かう折であり、ジョバンナは一計を案じる。精神が病んだとして精神病院に入院させたが、このウソはバレ、罰として過酷な旧ロシアとの戦線に赴くことに。ミラノ中央駅のホームで出征する夫を別れがたく見送るジョバンナ。
 やがて戦争は終結し、ジョバンナは戦後日本の舞鶴港を彷彿させる様に、帰還兵の中にアントニオの姿を駅頭で追ったが見つからず。諦めきれないジョバンナは消息を尋ねてロシアへ。戦没者が多く眠る広大な「ひまわり畑」で、墓標を探しまわるが見つからず。更に彼の写真を地元民に見せての探索、言葉が通じない中で地元女性が一軒の家を指す。

 一方、アントニオは雪降る中、敗走行軍の途次に倒れ、置いてきぼりにされた。その彼は、地元ロシアの美しい女性に依る必死の救出と介護により助けられた。そして彼女と結婚し子供を授かる。つつましく暮らすその家を地元女性が指した。ジョバンナは日中に彼女の家を訪ね写真を見せる。入り口には小さな女の子が。彼女はジョバンナを家に招き入れる。そして夕方、勤めから戻るアントニオを迎えに駅まで、ジョバンナを伴って。
 汽車から降り立ったアントニオに彼女は、離れたところに立つジョバンナを指さし、アントニオはジョバンナを視野に入れた。両者はそれぞれの想いを抑えつつ見つめ合うが、声を交わすことなく、ジョバンナは走り始めた汽車に飛び乗り客席で泣き崩れる。

 アントニオの妻はジョバンナに会うことを勧め、後日アントニオは出征時に約束した毛皮のマフラーを土産にイタリアに向かいジョバンナと会う。然し彼女も荒れた生活の後、結婚し男の子をもうけていた。その子供の名は、アントニオ。アントニオは互いの別離を確信した。そしてロシアに戻るアントニオはミラノ中央駅に立つ。彼の出征時に見送った同じホームで見送るジョバンナ、最後の別れとなることを心に刻みつつ、溢れ零れ落ちる一筋。とにかくソフィア・ローレンの表情に、心の内、全てが凝縮されている。

 筆者、80歳にあと数年を残すこの歳で映画の中の主人公たちの心情に思いを馳せ、その切なさを思うと心に刺すものがあった。自分に感受性が多少なりとも残って落す粒なのか、歳とともに緩む涙腺のせいか、何れにしても自らに驚いた。まだ捨てたものではないなと感じつつ、人間幾つになっても戻れる歳があるのだと、改めて感じるひと時だった。

 さて、この随想を見た何人かはレンタルショップに飛び込む人もおられよう。そのあなたと感受性を共有したいものだ。ショップへの飛び込みを諦めた人へ、せめて切なさが漂い、余韻を残すテーマ曲だけでも検索して聴いて欲しい。 そうすれば戻れますよ! あなたのその昔の歳に……。

2021年11月
  随想80 気分は如何

 冬に向かうと気分がすぐれない人を時たま見かける。あなたは大丈夫ですか。
 その原因の1つは光だ。この光不足により心身の不調が生じやすい。それは季節性うつ病、専門的には「季節性感情障害」を起こす人がいる。
 冬に向けて日照時間は短くなり、太陽光の強さも弱まり、地上に降り注ぐ日射量の時間が短くなる。東京の場合、11月~12月は最も多い5月の日射量の半分にとどまっている。
 光が不足すると昼夜のリズムに合わせて、睡眠などの生理現象を調節する「体内時計」に必要な情報が足りなくなる。そのため心身の不調を招くことになる。通常のうつ状態だと食欲が減退するが、冬の季節性うつ病では炭水化物や甘いものを過剰に食べたくなる症状を呈する。これらの不調が秋から冬にかけて現れ、春に治る人は先ずはこの疾患が推定される。

 治療法としては、効果的なタイミングで「光を浴びること」がうつ症状や認知機能を正常化させることが分かっている。通常の照明の10~40倍の強さの人工的な光を目に入れる「光療法」は、うつ病全般の治療に効果が認められているそうだ。季節性うつ病の予防と改善には屋外の太陽光を活用することがこれまた重要。中でも決め手は「朝日」とのこと。目から入ったアサヒは目の中の視交叉上核に直接働きかけて体内時計をリセットする。

 日中は散歩や野外活動などで意識的に太陽光を浴びて光不足を補うことは勿論、夜に気を配ることも必要な由。夜に目にする照明器具は昼光色や昼白色などの白く明るい色を遅い時間まで浴び続けると、体内時計が少しずつ夜型にずれていく。特に冬の就寝1~2時間前から暖色系の電球色の照明を使うと副交感神経が優位になり、寝つきや睡眠の質が上がると言われている。
 リビングなどで過ごすときは天井の明かりを落とし、スタンドなどの間接照明を選ぶと良いのでは…。光の色をボタン操作で変えられる発光ダイオード、所謂LED照明器具が売り出されて久しい。こまめに時間帯に合わせて活用することも必要なことなのだろう。
 パソコンやスマートフォンなどは光が弱いので影響はすぐには出ないものの、夜遅い時間帯の2時間以上の連続使用は避けたほうが良いとされている。
 尚、子供は成人より光の影響を2倍受けやすいとのペーパーがある。

 さて、筆者は午後から草花などの世話など、夕方からは18時には食事。テレビは殆ど見ることもなく、20時過ぎには枕に頭を落とす。朝は3時過ぎに起き、年2回程発刊している稚拙な経済関連テーマを著わし、朝食を挟んで昼頃まで続けている。その為、光は外で浴び、夜の照明にお世話になることは少ない。
 然るに、至って健康の毎日だが、然し20年程前までは執務室での蛍光灯の光、終業後は赤や青の光が灯る下をふらふらと散歩だったが、光療法を受けずに済んだことは有難いことと感謝している。

2021年10月
  随想79 初等算数

 昔々、更にその昔、狩猟で得た鳥やイノシシなどの数を木の棒や石などを地面に並べて記録した。また別に縄に結び目をつけるなどの方法でも記録した。5000年程前の南アメリカ・ペルーにあるカラル遺跡でも縄を結ぶキープと称する方式で残している。10年程前、当地を訪ねた折にびっくりしたものだ。
 一方、中国には西暦の紀元前後から3世紀初頭の時代に作られた書物、「九章算術」がある。日本ではそれを15世紀超の長きに亘って学んできた。一方、日本では昭和16年頃まで、四則演算や分数、比例、あるいは「つるかめ算」などを教える初等数学の科目を「算術」と称していた。その後、日本の学校では算数と呼ばれるようになった。

 話を中国に戻そう。
 先の「九章算術」は後漢時代に撰者未詳だが作られた。然し、前漢末期に儒学の経典「周礼」が成立していたが、それによれば周の時代には初歩的な数学が子供たちに教えられていたらしい。当時、貴族の子弟たちが通う学校があり、教育担当が子供たちに六藝を教えていた。
 その六藝とは、成人の後に君子として生きるために必須の教養や技術で、具体的には「礼」「楽」「射」「御」「書」「数」だ。具体的には礼儀作法、音楽、弓道、乗馬、文字、そして「数学」の6種類だ。
 最後にある「数」については、「周礼」での注は更に細かく分けている。方田、粟米(ぞくべい)、差分、少広、商功、均輸、方程、嬴不足(えいふそく)、旁要、と分けており、これを九数といっていた。

 数学といえばすぐに思い浮かべるのは、先ずは方程式が一般的ではなかろうか。その方程式には未知数を含み、その未知数に特定の数値を与えた時に成立する等式だ。その方程式の言葉の出典は、先の「周礼」である。加えて、冒頭に触れた「九章算術」にも方程問項目が建てられている。
 こう考えると、日本では縄文時代の終わりごろ、つまりイノシシなどを追っかけていたころ、中国の昔の特権階級の子供たちは、2千年以上前から方程式を解いていたのだ。

 さて、数学が苦手で理工系を諦めた方々も多かろう。筆者も、思考回路からしても無理な領域。その昔、理工系に進んだ人たちを羨ましくも思い、敬意をもったものだ。
 振り返って、姻戚関係を見回しても理工系に進んだ人間はいない。理工系に向いていない遺伝子が代々続いたのだろう。そう思うと多少、気が楽になったが…。
 でも、望みを捨てずに、未だ7歳の孫に期待しようか…。

2021年9月
  随想78 森

 今の季節、森は未だ緑に覆われている。そしてこれから地域によってはその森は紅く染まってゆくことになる。その森は昨今、脱炭素化ではもとより、別な面でも脚光を浴びつつある。

 さて、地球上には何本くらいの木があるかご存じだろうか。2015年に米エール大学が英科学誌ネイチャーで発表した数字は3兆450億本だった。衛星画像などをスーパーコンピューターで解析した結果だというが、当たらずと雖もも遠からず、だろうか。然しそこには昨今の伐採本数は年間150億本と記されている。
 一方、国連食糧農業機関(FAO)の資料では、世界の陸地面積の約3割、約40億ヘクタールが森の面積だ。うち3割が人の手が入っていない原生林、天然再生林と呼ばれる人が手を入れている面積は約6割、残りは植林によってできた人工林が約1割だ。一方、森の消失率は、近年は下がってきている。背景は農業や酪農など技術の進歩により先進国では森林減少に歯止めがかかってきており、国によっては耕作地や牧草地の放棄で森に戻っているケースもみられる。また国家主導で植林や森林保全に力を入れている国々があり、そうした森を増やす動きを示している国々として、中国やべトナム、コスタリカなどが挙げられる。
 では、先進国の米国の状況を覗いてみよう。米国にはウェアーハウザー社という世界一森林を持つ会社があり、その面積は九州と四国を合わせたほどの面積を持ち、毎年2%ほどを伐採しその半分は輸出に回し、その3分の2は日本が輸入している。その伐採跡地には植林を重ね、50年で伐採地を一周することになる。因みにこの5年間で植えた苗木は6億5千万本というから驚く。

 なお、民有林を大量に保有する企業はと言えば、日本でもそうだが製材、製紙会社だったが、米国ではハーバード大学やエール大学の基金や公務員年金などの大規模な資金を運用する投資家がリスク分散に最適と森に目をつけ、投資を重ねている。森林投資の利回りは1年間の利回りは6%台と仄聞する。
 一方、スペインではFAOの統計では1990年に比し25年後の2015年には約4割増の1,842万ヘクタールに森林が拡大している。その背景は、広々した牧草地で山羊が草をはんでいた光景からサクランボなどの果樹園などに転換している。輸送技術が発達し、傷みやすい果樹が新鮮なまま外国に運べるようになり、かつEUの成立で関税がなくなったことからだ。酪農・畜産からの転換は当然のことながら、広大な牧草地は森へと戻っていくことになる。

 さて、次元の下がる話で恐縮だが、その昔僻地の土地への投資や森林投資で騙された人が多くいて、筆者の周りでは両手で数えるほどいた。当時、筆者はお金もなく話を持ち込まれたが乗らなかつた。その背景は、着工寸前のゴルフ場の第一次募集に応じ、またその数か月後に別なゴルフ場の縁故募集があり、それにも銀行から借りて会員権を購入。どちらも、ものの見事に「未完」、経営の責任者は逃亡。
 未完が確定後、2年ほどたっての森林投資の話、この話、女房殿には到底言い出せず諦めたが、結果良し。当時、周りで森林投資の被害が判明した折には、「徳」のある女房殿に陰で手を合わせたものだ。

2021年8月
  随想77 雪

 真夏に、真逆の「雪」について語るのも悪くはなかろう。
 では、かき氷でも口にしながら目だけを運んでもらいましょう。雪にまつわることは、歌詞に、小説で言の葉として、更には写実的、抽象的に絵画や彫刻で表わされてきた。今月はその雪について、全てではなく、その一部に触れてみたい。

 思い出してほしい。我々が小さい頃シャンソン歌手の高英夫が歌う「雪の降る町を」、なんとなく背伸びをして大人になった気分で聞いていた。そして少年から青年になりつつある頃に、甘い旋律でどこなく物憂げに、イタリア生まれのベルギー人アダモが歌う「雪が降る」が聞こえてきた。失恋をしたときに聞くと癒してくれるどころか、忘れることを教えてくれと叫びたくなる歌詞だった。そして、中年の一歩手前あたりに流行ったのが吉幾三の「雪国」、大柄のその男が口にする旋律と歌詞、雪降る片田舎の酒場で聴くにぴったりの曲だった。

 一方、その雪は積もった状態を表す言葉がいくつもある。太宰治が東京から故郷・青森に取材の旅に出て、書き上げた風土記「津軽」がある。そこでは、七つの雪の名前の箇条書きから始まる。「こな雪」「つぶ雪」「わた雪」「みず雪」「かた雪」「ざらめ雪」「こおり雪」と続く。イメージは一般的には分かるが完全に説明できる人は、何人もいないだろう。
 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」で始まる川端康成の「雪国」、主人公は芸者の駒子、彼女が芸者になった経緯、そして奔放でつかみどころのない魅力。映画化は1957年岸恵子が駒子役で、1965年には岩下志麻が同じく駒子役を演じている。お茶の水周辺の映画館で観られた方も多かろう。因みに、越後湯沢温泉に「雪国の宿・高半」がある。ここでは川端康成の作品などを集めた展示室がある。文学が好きで温泉が好きな方は、訪ねられては如何だろうか。筆者も何泊かを数回重ねている。

 他に、雪をタイトルに付した作品がある。三島由紀夫の豊穣の海の第1巻「春の雪」、侯爵家の男性と伯爵家の女性との恋物語だがお互いは結婚できず、悲しい結末を迎えることに……。更に文豪が「雪」を入れた小説を書いている。谷崎潤一郎の「細雪」だ。大阪・船場の格式ある商家の4姉妹の物語だが、潤一郎の3人目の妻松子が細雪に登場する次女幸子のイメージだと言われているが、本当か否かはわからない。

 一方、浮世絵に雪を題材とした鈴木晴信の作品がある。「雪中相合傘」(右図)。番傘に薄く雪が積もり、その下で男女が白と黒のコントラストが利いた着物を羽織り、何とも言えない夢幻の世界を醸し出している。当時の相合傘は一般的ではなく、歌舞伎の舞台では、心中の場に向かう男女の演出として、相合傘の道行が定番だった由。この雪中相合傘は、現在大英博物館の所蔵で数年前訪ねた折には残念ながら目にすることはできなかった。

 さて、この暑い時期に「雪」に触れて少しは「涼」の足しになっただろうか。芸術は時を選ばず。そして、どこの世界でも連れて行ってくれる。もう少しの辛抱で、コロナの禍も収束することだろう。その後は、リアルに海外を含めて旅することは可能だ。それまで辛抱、辛抱……。
 但し、家の中ばかりですと、心筋梗塞、脳溢血、精神障害が待っていますぞ! では、ワクチンを打ったからと危険を覚悟で外出?
 さて、小生はどちらも避けても生きるのは精々あと、四分の一世紀……。

2021年7月
  随想76 寿司

 コロナのワクチン、接種されましたか。未だの方は今月中には目途が立つことでしょう。筆者は先月23日に2回目でした。毎秋に続けてきた、友人5人との25年ほどに亘る旅行、昨年は初めて中止としましたが、今年は再開できそうなので、この秋を楽しみにしている。
 さて、接種が終わり、生ものが気になる梅雨も明ければ、大好きな寿司屋の暖簾も堂々とくぐれます。今回はその寿司の歴史を振り返ってみよう。

 酢飯の上に具をのせて軽く握った寿司が「江戸前寿司」。江戸が発祥で、1820年~1830年、所謂、江戸後期に両国で華屋与兵衛が、あるいは深川で堺屋松五郎が考案したとされる。それまでの寿司は大きくは2通りを指していた。
一つは「熟(な)れ寿司」、魚を米と塩で発酵させる保存食だ。もう一つは「押し型」という、調理器具に酢飯と具を重ねて力を入れてつくった上方生まれのものだ。このどちらも、調理に時間がかかることからせっかちな江戸っ子には、あまり受け入れられず江戸前寿司が急速に普及した。
 当時の江戸前寿司は、ファーストフード感覚だったそうだ。仕事帰りや風呂上がり、屋台などにふらっと立ち寄って軽くつまむもので、シャリは現代の寿司より大きめ、ネタには味がついているので醤油はつけずに食べた。何故、急速に普及したのか、経済ものを著わす筆者にとっては興味津々だったので探ってみた。
 この頃の江戸は、核家族化が進み一人暮らしの高齢者や地方からの単身赴任者も多かった。そのため、狭い台所で自炊するよりも外食する方が便利で、効率的だという人たちに支えられて普及していった。こうした背景だから、寿司だけではなく、串に魚介類の切り身を刺して揚げた天麩羅、そして蕎麦、うどん、だんごなど、その場で出来立てを味わえるたくさんの屋台や飲食店などで夜通し賑わっていた。

 さて、ついでと言っては何ですが、寿司などに欠かせないマグロと醤油についても少し触れておこう。
 今でこそ珍重されるマグロ、江戸時代は腐りやすく、個体が大きいから運びにくい、ということで新鮮な状況では提供できずにいた。乾燥させると固くなり、加熱や塩漬けにすれば味が落ちるというマグロは下魚と呼ばれていた。特に腐りやすいトロは、猫すら素通りをすることから「猫またぎ」と呼ばれ、捨てられていた。そんなマグロが市民権を得たのは江戸後期。マグロが大量に取れて、処分に困り、赤身の部分を醤油と酒とみりんで下味をつけて「ヅケ」と称して握り寿司として提供したところ、美味しいとの評判が立った。そのキーポイントは醤油だ。
 その醤油は、室町時代の末期から近畿地方で製造が始まった由。輸送に手間がかかることから、江戸では当時、大変高価なものだったので、関東でも野田や銚子で醤油の製造が始まった。然し、品質は上方の醤油には及ばなかった。然し、1700年ごろにヒゲタ醤油が大豆主体の原料に小麦を配合したことで、香り豊かで味の濃い醤油醸造に成功し、この味が急速に広まった。1820年前後では江戸における醤油125万樽のうち、123万樽は関東の醤油という圧倒的なシェアに至った。

 さて、最初はマグロの赤身で、そして締めはカッパと昔から変わらないが、昨今は10貫ほどしか食せない筆者、あがりとガリに向かう時間が多くなってきたことを自ら悟っている。時代は変わっているのにオーダースタイルが変わらない自分、世の中の変化についてゆけない自分と重ね合わせている。
 ところで寿司屋の「あがり」の語源、検索されると、一つ知識が増えますョ!

2021年6月
  随想75 儘ならない

 梅雨に入り、更にコロナで外出が儘ならないこの時期ではあるが、それとは比較にならない程外出が厳しい人達が150年ほど前までの約250年間、この日本に存在した。対象の数は2千人超、それも女性ばかり、と記せばもうお判りでしょう、江戸城、大奥だ。
 大奥には、老女や御中臈(おちゅうろう)を始めとする多くの役職があった。幕府から扶持をもらう直の奉公人は数百人で、その他は部屋方、つまり女中の部屋に仕える女中で、部屋頭をお局と呼んでいた。女中たちは、長局と呼ばれる宿舎に与えられた部屋で暮らし、そこから大奥の御殿向きに通って、それぞれの仕事に従事した。例えば、諸大名との交際や男子役人との交渉にあたるのが、御表使い。老女が出す手紙を代筆するのが御祐筆、将軍や御台様の衣装を仕立てるのが呉服之間など様々な分野を担当していた。
 将軍に拝謁できない御目見得以下の女中には、料理を盛り付ける仲居、局の見回り役をする火の番、毎朝水を汲んでくるお末(すえ)など、下役もあった。

 さて、大奥での権力者と言えば老女であり、正式には御年寄と呼んでいた。御年寄は将軍付きが4名、御台様付きは2名など数名がおかれ、その内の1人が御用掛となり大奥内の万事を取り仕切った。この御年寄は、幕府の首相に当たる老中と同格とされ、将軍もこの御年寄が来ると居住まいを正したとのことだ。
 大奥の最大の任務はお世継ぎをもうけることだが、御台様に子ができれば1番良いのだが、成長して将軍になったのは徳川の長い歴史の中で三代将軍の家光だけだ。将軍の側でお世話をするのは御台様の他、扶持をもらって仕える御中臈だった。将軍付きの御中臈は7~8人いて、将軍はその中から気に入った者を寝間に呼んだ。また御次など御目見得以上の身分の女中が将軍の目に留まって、御中臈に昇進することもあった。こうしたことから、老女は親戚の娘などを小さい頃から自分の部屋で養育し、御中臈に引き上げようとしていた。中には大奥で催されるひな祭りに呼ばれ、そこで将軍の目に留まって御中臈になった者もいる。寵愛を受けるだけでは女中身分の御中臈のままだが、子を産んで御中臈の地位から脱して御部屋様となれば、幕府から大奥女中を付けられる。身分は老女の上、あるいは姫君様格が与えられて、将軍の家族扱いとなる。そして自分が産んだ子が将軍になれば、御腹様(将軍生母)として権力をふるうことになる。
 ということで、大奥女中たちは将軍の寵愛を得るための争いが、陰に陽に深まることになる。中には懐妊した御中臈を縁側から突き落として流産させる御中臈などが現れたりする、陰湿な世界でもあった。
 因みに徳川15代に亘る将軍の中で、子供を一番多く授かったのは11代将軍家斉で53人、無事に成人に至ったのは28人。彼は15歳で将軍になり、正室、側室20人以上、お手付けした女性が20人以上と言われている。

 このように話題豊富な「大奥」、物語にならないハズがなく、著作も多くある。例えば、松本清張による推理手法で描かれた文春文庫からの「かげろう絵図」。徳間文庫からの「江戸鼓春日局の生涯」は、著者は澤田ふじ子。講談社からの「新装版天璋院篤姫」は、将軍御台所として大奥を統制しながら激動の幕末を生き抜くさまが記されている。著者は宮尾登美子だ。

 さ~て、あなたが江戸時代に生まれたとしましょう。それも、まかり間違って将軍になっていたとしたら、如何されますか?
 女性の方、これもまたまかり間違って権勢を誇る立場になっていたら?
 今のあなたに比べてその時のあなたを幸せと思われますか?
……筆者にそのコメントを求められたら、即、答えます。
「江戸初期の頃に1年間でもいいから将軍になりたい!」と。
 世の中を治める能力は全くないが、今頃は自分の血を引く人たちが何万人にもなっていたことだろう、と妄想しながら……。そんなことを女房殿に話をしたら、これまた即
「わたくしから暫く離れていてください、この1か月はお話をしたくありません」と隣の部屋へ。
 コロナでお互いに家にいるとこんなことも。なんとも情けないことです。
 今日もまた着実に一歩、三途の川に向かって歩いています。

2021年5月
  随想74 5月生まれ

 当然、世の中では単純に、12人に1人は5月生まれ。もしかしたら、あなたは今月、「誕生日」月ですか? そう、今回の主人公の彼女も5月生まれで日付は12日です。
 時代は今から200年前の1820年、誕生の地はイタリアのフィレンツェ。両親の数年にも及ぶ新婚旅行の途次に生まれた。国籍は英国、フィレンツェは英語読みではフローレンス、彼女の姓は後に譲るとして、名はフローレンスだ。家庭教師に統計学の大家が就いたことで、学んだ彼女は統計学の母とも呼ばれた。彼女が二十歳のころは、日本では天保の飢饉で各地で一揆が起こっていた、そんな時代背景の頃だ。
 18世紀末に産業革命が起きた英国社会、この頃は「資本家・地主階級」と貧しい「労働者階級」とで構成されていた。フローレンスの両親は当然前者故、長期の新婚旅行を続けられ、フローレンスも何不自由のない子供時代を過ごした。当時の英国での富裕層は、病院や施設に寄付などの慈善活動を行うことはごく一般的であり、成人したフローレンスも病院へ慰問に訪れたが、その不潔な環境に衝撃を受けていた。
 この時代の英国での病院は、自宅に医師を呼べない貧しい人たちがしかたなく入るところだった。これを見た彼女は、看護に生きることが自分の使命だと感じた。その後一人で勉強し、婚約者との結婚を破棄して、ドイツの病院で看護を学び、帰国して慈善病院の看護師長になった。この頃の看護師は専門知識もなく、最低の職業として蔑まされていた。裕福な彼女の家族は、なにも看護師になることはないと猛反対をしたが、フローレンスは聞く耳を持たなかった。

 彼女が帰国した年に、ロシアとオスマン帝国が争うクリミア戦争が勃発した。英国はオスマン帝国側について参戦したが、大量の負傷者が出た。フローレンスは陸軍大臣から看護団を作るよう依頼を受け、34人の女性看護師団を率いて現在のトルコのユスキュダルの野戦病院に赴いた。彼女らは献身的な看護に従事し、夜中にランプを照らして様子を見て歩く姿に兵士は安心感と生きる希望を持ったとの由。看護師の戴帽式で、暗がりで明かりを灯すのは、この戦地での「夜回り」を欠かさなかったことに由来する、とのことだ。
 一方、フローレンスは兵士の死因が負傷によるものよりも、院内の感染症による方が多いことを統計的に気づき、死因の数や月ごとの集計などを国に報告し、帰国後病院の改善策を提案した。これら改善策を取り入れた陸軍病院での死者の数は、大幅に減った。
 彼女は、帰国時にビクトリア女王に拝謁の機会を得た。フローレンスはその後、看護師、病院の管理や看護指導ができる人材育成が必要と考え、世界で初めての養成学校を開いた。当時彼女が書いた「看護覚え書」という本は、現在でも世界の看護学生らに読み継がれている。養成学校を創設した50年後の1810年、彼女は90歳で亡くなった。
 さて、彼女の姓だが……。当然お分かりですよね! そうです、ナイチンゲールです。
 因みに、このナイチンゲールは古英語でnaihtegaleと表し、古英語の夜(nihte)と歌う(galan)とを組み合わせたもの。古いザクセン語の(nahtagale)と同じ意味だ。ドイツ語やオランダ語、デンマーク語でも同じ意味だ。つまりゲルマン語系なのだろう。なお、彼女の姓とnaihtegaleとの関係は分かりません。

 さて、これまで読まれた女性の方に質問。
 貴女は「ナイチンゲール」タイプですか、それとも同じ英国人の鉄の女「サッチャー」タイプか、どちらですか。二人とも頼れる一途な性格なのですが……。
 男性に聞きます、あなたのパートナーは同じ質問ですが、どちらタイプですか。
 小生の女房殿は後者。この4月は我々の金婚式でした。しかし、この50年間いつも抑圧され、収容所生活の感じで過ごし、唯一の安息時間は会社で過ごす時でした。退職後は24時間監獄の監視の中状態、いつ出所ができるのか。
 わが妻は年下であり、女性の長生きを考えたら、小生より先に逝くことは到底望み薄。つまり出所は自分の逝くときだろう。
 神様! なぜ我々を結びつけたのですか?
 どうか お願いです!!! ワタクシの青年、壮年、老年時代を返してください……。

2021年4月
  随想73 世界三大料理

 さて、世界三大料理と言えばあなたは何を選びますか。
 フレンチ、中華までは皆さん一緒でしょう。加える料理をトルコ料理と挙げれば疑問に思う人もおられよう。世界的にはトルコ料理が定番だ。
 トルコ料理と言えば、先ずは肉を串に刺して焼いたケバブが思い出されるがそれだけではない。トルコ語で「詰める」を意味する「ドルマ」も代表的な料理だ。キャベツやトマト、リンゴなどにひき肉や野菜の刻んだもの、米などを詰めた料理だ。何を詰めるかはお好みで各地方や家庭で異なる。概して黒海や地中海、エーゲ海など沿岸地方では魚食が盛んで、東に行けば肉食が多くなることから、ドルマに詰め込むのにも、特色が出てくる。
 また、代表的な料理としては「ブレキ」が挙げられる。白いチーズと小麦粉の生地を何層も重ねてオーブンで焼いたパイを「ブレキ」というが、この中にホウレンソウやジャガイモ、ひき肉などを入れることでバラエティーに富んだブレキが出来上がる。
 他にも「ケシケキ」もある。麦や鶏肉、ミルクなどを煮込んで作る粥みたいなもので、よく食されるが結婚やお祝い、宗教行事などの折には必ず出される。ユネスコの無形文化遺産にも認定されている料理だ。
 何せ、日本の領土のおおよそ2倍の国土を持つトルコは、農畜産も盛んでナッツやチーズ生産も多くこれらを使う料理が多い。そのトルコのチーズには牛、羊、水牛、ヤギなど130種類以上あるとされている。トルコ人はチーズを食べないと1日が終わらないとか。背景は中央アジアにいた遊牧民が西に移動して、広大な地域を支配したオスマン帝国を経て今のトルコが形成されたことから、遊牧民、イスラム、地中海の食文化を吸収し昇華されたのがトルコ料理なのだろう。
 ヨーグルトを最初につくったのもトルコ人と言われており、ヨーグルトに水と塩を混ぜた飲み物「アイラン」はケバブのお供としてよく飲まれている。かつて、トルコに草鞋を脱いだ折に口にしたが、日本人には多少抵抗があるかもしれない。かつて雪印メグからこの種の飲み物が発売されたが、昨今は目にしない。
 一方、トルココーヒーはコーヒー粉を入れた水を沸かし、泡立つように注ぐのが流儀だ。これにはおまけがある。底に残ったコーヒー粉の形で運勢を見る「コーヒー占い」も有名だ。有名と言えば、トルコ語で凍らせたものを意味する「ドンドゥルマ」は、日本ではトルコアイスと呼ばれ皆さんの知るところだろう。これはトルコの氷菓で、伸びるアイスクリームだ。気温が高い地域で溶けて垂れるのを防ぐため粘度を上げたものだ。現地で購入する折は売り手がパフォーマンスをしながら手渡してくれる。

 さて、この最後の文章を記しながら思い出したことがある。その昔、西田佐知子が歌ったコーヒールンバだ。
   ♪昔、アラブの偉いお坊さんが
    恋を忘れた哀れな男に…♫
 そして、終わりのフレーズが
   ♫…愛のコーヒールンバ♫
 そう…あの頃は…。

2021年3月
  随想72 銀座

 大手を振って未だ外出ができないこの月ですが、お許しをいただいて銀ブラでもしませんか。かといって、皆さんと行列をなしてでは、如何と思いますので「紙上」での散歩で如何でしょうか。
 では、多少事前に知識を入れて歩くことで、楽しみを倍加しましょう。

 ご存じの通り、徳川家康による江戸開府前、銀座の地は東京湾に突き出した低湿地帯で人家は殆どなかった。内容が正しいとされる最古の江戸図「武州豊嶋郡江戸庄図」(右図。銀座は中央やや左下)によれば、埋め立て造成された銀座の場所は「新両替町」の町名が記されている。他の古地図には「京橋南」とか「銀座」など表記は分かれている。これから最初は京橋南と単に方角で著され、両替商などの職人の町の賑わいに伴い、新両替町、銀座へと移り変わったのだろう。銀座の名称はこれまたご案内の通り、1612年、家康が駿府から銀貨鋳造所「銀座役所」を移設し、188年続いたことに由来している。因みに「金座」は日本橋にあった。
 一方、1872年の大火が原因で焼け野原になった銀座は幕末にはさびれた状態だった。銀座の発展を見限った中小地主は土地を手放した。その地主の数は銀座全体で55%。しかし明治政府は威信をかけて銀座一帯をレンガ造りの「不燃都市」の建設を始め、77年には全体がほぼ完成した。1キロにわたるバルコニーや列柱を備えた西洋風の街並みとなった。そこに新しもの好きの商人が移り住み小売業を始めた。
 折しも、新橋―横浜間の鉄道が72年に開通、新橋と商業の中心地に挟まれた銀座は客が押し寄せ、77年には読売新聞社など新聞各社がこぞって移転をして来て一大情報都市ともなった。しかし、関東大震災や東京大空襲で焦土と化した銀座だが、都度、時代を先取りして街を創生してきた。

 さて、昨今の銀座は百貨店が斜陽産業の中にあり息も絶え絶えだが、カジュアル衣料品店や外資系ブランド店が目抜き通りを席巻している。香水や音楽を店の外に垂れ流し、地元と衝突したとの話も聞く。今は店舗の新旧交代時期なのだろうか。それでも「銀座」に関連する老舗古銭店が銀座5丁目にある。そこには1772年鋳造され、表面に「銀座常是」の極印が輝く「古南鐐二朱銀」や450万円もする「元禄二面大黒丁銀」が並んでいる。そして服部時計店、木村パン店も健在だ。
 さてその昔、中央通りは勿論のこと、並木通りやみゆき通りを散歩したあなた、その時歩いた恋人が今のパートナーですか。ゆめゆめ今のパートナーに銀座の思い出を語ってはなりませんぞ。今のあなたは記憶が交差していることは間違いないと思いますので……。話せば「それ私ではない」となることでしょう。
 と言うことで、せいぜいあなたの地元の○○銀座を散歩されて、東京中央区の銀座を歩いた気持になられた方が家庭は円満かと思いますが……。
 因みに、その銀座の名を冠した商店街は全国に300以上あるそうだ。最初は東京品川の「戸越銀座」だそうですョ。一方、銀座の名が入った地名は「本庄市銀座」をはじめ全国で20を超す由。

 それでは、小生も地元の「銀座」に歩きに行くとしますか……。
 今更、女房殿と手をつないで散歩をする歳でもないが。思い起こせば、学生時代ご本家の銀座を恋人と歩いた記憶はない。鳴子我がloneliness時代……、戻れ 青春!!!
 そうだ、散歩は止めてこれから森田公一の「青春時代」でも唄うとするか……。

2021年2月
  随想71 一攫千金

 先月、つまりこの1月に大金を手にした人がいたそうだ。昨年末にジャンボ宝くじの当選番号が発表になり、10億円を手にした人のことだ。それはもしかしたら貴方では……。

 兎に角大金を手にすると良くないことが起こるというが、何れにしても手にしたいものだ。貴方は如何ですか?
「手にした~ィ!!」
 それが普通ですョ……。欲張りなんかではありませんョ!
 然し、宝くじの歴史も知らずに、ただ欲しいでは打出の小槌を持つ大黒天様から嫌われますよ。ですから今回のテーマは前置きが長くなりましたが、「宝くじ」の歴史としました。

 宝くじ、その昔はご案内の通り「富くじ」と呼ばれていた。そもそも現在の宝くじは、当せん金付証票法に基づき発行される富くじのことだ。発祥は諸説あるが、大阪・箕面(みのお)市にある箕面滝に向かう道中には龍安寺がある。そこが日本で最初の富くじを行ったとされる寺だ。時は1624年、家光の時代だ。この龍安寺、江戸時代の地誌「摂津名所図会」に、箕面富で寺が賑わう様が描かれている(右図)。その絵には、こう記されている。
「当たりても減る銭金の冨でなし 身のおい先を守る神札ぞ」と。
 身のおい先と箕面を掛ことばとしている。つまり、行く先の幸せを願う、健康祈願の富くじであったのだ。毎年10月10日に龍安寺では、江戸時代から伝わる富の木箱に住職が錐の棒を差し入れて木札を突き、当たり札を決める。是非、その時期前後に関西に行かれる用向きがあれば立ち寄られると良いのでは。筆者は大阪勤務の折、その近くに居を構えていたので、休日などにその森閑とした参道を散策したものです。

 さて、現在のような少額で夢を買う富くじは、東京の増上寺はじめ全国で販売された。しかし1692年「人心を乱す」として神社仏閣の修復以外での富くじを禁止した。1842年の天保の改革で全面禁止となった。さて、その後全国的に復活したのはいつだと思いますか。
 それは残念なことですが、戦時中でした。
 戦費の調達と戦勝祈願を兼ねて「勝札」を販売したが、抽選前に敗戦を迎え「負札」とも呼ばれた。現在の宝くじは法改正を重ねて、1等賞金は1枚の価格の250万倍までに拡大された。1989年に1等賞金は前後賞合わせて1億円、2012年に5億円、15年には10憶円と増えている。因みに、売上金は大まかには年間約8,000億円。うち約5割が賞金に、また約4割が発行した都道府県などが使う収益金に、そして1割が印刷や販売の費用として消えていく。

 大黒天様もインバウンドで国際的になられ、海外からの観光客の宝くじ購入者へ……「Goriyaku enough!」と、お話になられています。これを読まれた貴方も、ゴリヤクは十分ですぞ、早速宝くじ売り場へ駆けつけてください。
 兎に角十億円、1,000,000,000円ですぞ……。
ですけど、チョット待ってください。行列の1番前は恐縮ですが、情報を提供しました小生とさせて下さい。ご安心ください、10億円の当選は年間には何本もありますから……。 列は乱さず、静かにお並び頂き、当選後の10億円の使い道を目を閉じ、思いを巡らしてください……。

2021年1月
  随想70 散策

 新しい年になりました。昨年はコロナウィルスで散々な年でしたが、今年はそれらを跳ねのけて、元気で過ごしましょう。そう! そのためには人をあまり見かけない処を散策するのも良いのでは……。では皆さんが東京生活の折に訪ねた、上野や山手線内側の北側を探訪しましょう。ただのブラ~リ・ブラ~リだけではつまらないので、文士の名跡でも訪ねながら参るとしましょうか……。

 文士と言えば先ずは、京浜東北線と山手線が分岐する田端界隈から出発しましょう。
 明治から昭和初期に多くの著名な文人墨客が移り住んだ所謂、「文士村」と呼ばれる地域が田端周辺にあった。田端駅北口から山手線内側に歩いて、徒歩2分に田端文士村記念館がある。そこでは、文士村に関係ある人々の企画展が多く開催される。2021年1月24日までは、芥川龍之介関連の展示がされている。この田端周辺に居住、また墓のあるなどの関係者は、小説家では芥川龍之介、「恩讐の彼方」の菊池寛、出世作「キャラメル工場から」の佐多稲子、彼女は工場勤務、女中、女給などを経験し、上野での女給時代に芥川龍之介の知遇を得ている。
 一方、詩人では明治大学でも講義を持った萩原朔太郎、現在の都立両国高校、昔の府立3中で1年下に芥川龍之介が在席しており、慶応に入ったときには文学科に森鴎外や永井荷風が教授として在任していて、それにより彼の運命が決まった。朔太郎の句は、浅草神社に「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」と刻まれた句碑がある。
 俳人では、居住したのは根岸だが、お墓が田端駅北口から徒歩8分の大龍寺にある正岡子規、因みに子規とはホトトギスの漢字表記だ。他にもホトトギスの漢字表記は不如帰、時鳥などがある。子規が35歳で亡くなる前7年間は結核で苦しみ、喀血も頻繁にあった。「鳴いて血を吐く」と言われるホトトギスに、自分を重ね合わせたのであろう、俳号に子規を選んだ。ご案内の通り、彼が創刊した俳句雑誌の名は「ホトトギス」だ。
 同じ俳人であり小説家、劇作家の久保田万太郎も関係者だ。加えて洋画家の小杉放菴、陶芸家の板谷波山、漫画家で戦前に一世を風靡した「のらくろ」の作家、田河水泡もそうだ。彼は文芸評論家の小林秀雄の妹を妻に迎え、ダークダックスのバクさんこと高見沢宏を甥に持つ。内弟子としては「サザエさん」の長谷川町子などがいる。
 詩人であり小説家の室生犀星は大龍寺の近くに居住したが、田端周辺で5回も引越しを重ねている。また大龍寺の近くには、15歳で西条八十の門をたたいた童謡作家サトウハチローなども居住していた。このように半径1km内にこれだけの文化的著名人が関係者として挙げられ、旧跡を残している。まさに文士村だった。

 それでは、少し休んで山手線で高田馬場にまで移動しましょう。次は夏目漱石の特集とでもいきましょうか。高田馬場駅東側にある夏目坂の近くに彼の生家跡があり、そこには石碑がある。少し北に上がれば、東京専門学校、現在の早稲田大学がある。ここでは1892年から約3年間英語教師を務めた。更に北へ向かうと雑司ヶ谷霊園がある。ここには、漱石夫妻と五女ひな子が葬られている。この霊園、小説「こころ」でも登場、「Kの墓があることであり、先生は毎年墓参りに行く」と。高田馬場と御徒町の中間あたりに大学院時代の下宿、法蔵院があり、ほんの少し東側に伝通院がある。彼の作品の「それから」の美千代、「こころ」の学生時代の先生がこの近所に住んでいた設定だ。そこから北に上れば多少遠いが団子坂、ここでは「三四郎」で三四郎が美禰子らと菊人形を見に行っている。団子坂から東南に下れば上野公園、「虞美人草」では、主な登場人物たちが、この地で開催された東京勧業博覧会を見物している。また「こころ」では先生とKと散歩している。この地の博物館で「それから」の平岡が、代助に美千代への愛を打ち明けている。公園内には精養軒がある。「三四郎」で与次郎が会合をここで開き、更に「行人」では一郎夫婦が知人の結婚披露に招待されている。尚、団子坂と上野公園の中間あたりの千駄木に、漱石が英国留学から帰国後の3年間住んだ猫の家がある。ここでは「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「草枕」などを著している。ここは彼にとって最初の借家だが、「吾輩は猫である」の家の舞台となっている。
 さて、後半の漱石探訪は如何でしたか。彼の松山、熊本、ロンドン時代の生活・行動の跡を追うことは、また機会がありましたら著すことにしましょう……。 因みにロンドン留学中、正岡子規の訃報が届き、その夜の漱石の句は
      手向くべき線香もなくて暮の秋
      きりぎりすの昔を忍び帰るべし
 これら、悲痛な想いを詠んでいる。彼らの仲の良さが窺える。

 さて、これら旧跡を巡ると、ほぼ1日がかり、ゴルフでいえば2ラウンドを回った感じだ。さぁ~、健脚の皆さん 元気にスタートしましょう。行ってらっしゃい……。どうして一緒に行かないのか、と問うあなたへ …
 小生は現在膝が痛いので皆さんが終了したところに駆け参じ、お疲れさん会の席で、行程中のお話を聞くのを楽しみにしていま~す。