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2023年12月
  随想105 大学

 大学を卒業して早いもので55年が過ぎた。
然し、その大学は今や少子化の影響を受けて経営の厳しさが叫ばれている。加えて、日本の大学は世界的にも質や量の両面で危機を迎えている。それはグローバル人材の育成の遅れや研究力の低下で世界での存在感が薄れているからだ。就いては今月の随想は学生時代に思いを馳せて、どうぞご覧あれ…。

 文部科学省の23年7月発表の推計値をみると、2050年の大学入学者は約49万人、22年から13万人も減り、入学定員が現状のままだと2割が埋まらなくなる。なお、22年の18歳人口は110万人に対して50年は80万人だ。つまり、収入の多くを授業料などに頼る私立大の経営は厳しくなるのだ。因みに、22年時点での入学者の定員割れの私大は284校、率にして47%だ。赤字校は3割に上っている。当然、経営が更に厳しくなれば人材育成機能が衰えることは論を待たない。
 一方、トップクラスである東大や京大も厳しい環境にある。両校の世界でのランクは順位を大幅に落としている。逆に中国の精華大はじめ香港、シンガポールなど中華圏の大学の伸びが著しい。論文数の最多は米ハーバード大で、2~4位は中国勢、日本勢は東大が28位、京大が82位だ。一方、日本の留学生の受け入れ比率は3%、経済協力機構(OECD)の平均は5%、主要7カ国(G7)での平均が8%と、留学生に魅力のない日本なのか、受け入れのポテンシャルがないのか、何れにしても寂しい限りだ。

 日本国政府もここ数年、この分野に視点を置くようになってきた。具体的には、世界で活躍する人材を多く輩出するための支援策を打ち出している。資産10兆円規模の「大学ファンド」は、運用益を数校に分けることにしている。目的は世界トップの研究大学に育てる、この国際卓越研究大学制の対象校候補に先ずは東大、京大ではなく、東北大学が選ばれた。一方、デジタル人材育成などの裾野を広げるため、文系大学の理系学部新設などを支援する3,000億円の基金も用意した。すべての大学が受けられるわけでなく、逆にレベルの低い大学に対しては補助金の減額もちらつかせている。
 何れにしても、大学間の生き残り競争は激しくなるだろう。大学の適正規模化に向けて産学官全体で見直す必要があろう。国立系大学は行政指導で統廃合が実施されており、有名大学同士が再編/統合される事例が出てきた。然し全体の4分の3を占める私立大学では指令塔がないことから、再編の動きは鈍い。国は2019年に学部譲渡の手続きを簡易化し、21年には国公私立の枠組みを超えて共同運営する制度を設けたが、活用の度合いは殆どない。

 扨て、我が母校は大丈夫か…。
 もし筆者が中央大学の理事長だったら、長期的視点に立ち、より一層の総合大学化を目指す。そして学部間の障壁を崩し、文理一体の研究/教育をし易くする方向を目指す。このことが将来の教育の在り方ではないかと考えるからだ。その為に工学系、医学系、薬科系、歯学系、外国語系、芸術系の単科大学と経営の統合もしくは吸収を図る。加えて海外の大学との連携強化ではなく、これまた経営統合を図り多国籍キャンパスはもとよりグローバルな大学を目指す。
 但し、医学部を始め国家試験や資格につながる学部は教育内容に自由度はないが、他の学部では 例えば1~2年次は海外留学を必須とし、「国際共修」と呼ぶ教育を徹底する。また海外からの留学生受け入れも入学時のハードルを下げて海外での学生募集のエージェント強化を図る。因みに学部学生での留学生の比率は、23年で中大が0.2%、東北大が1.9%、東大が2.0%、筑波大が2.6%、早稲田大が4.5%で立命館アジア太平洋大に至っては43.3%だ。
 なお、これら施策の延長線上では、これからの発展地域での大学新設、買収でより一層のワールドワイドを目指す。こうしたことで日本ではもとより、世界での評価も上がり、世界から優秀な学生も集まる。そして研究成果を上げ、卒業生が世界での政・財・官・医・芸のあらゆる分野で活躍する夢を見ているのだが…。

 ァ! 天から声が聞こえてきます。曰く、
 お前さんの歳を考えろ! 「大学」云々は、お前さんにとって、最早詮無い話、今考えるべきは終活で如何に人様に迷惑を掛けないことだ。
 加えて、六文銭の船賃を渡すまで長年連れ添ってきた女房に感謝し、拈行微笑を高めることだろう、と。
 ハィ! 言葉はありません!!  おっしゃる通りです……。

2023年11月
  随想104 退職金

 55年前、大学を卒業する折に「はなむけの言葉」を頂いた。一方、企業や官庁、各種団体に属した人はその卒業時に退職金なるものを受領することになる。その退職金について今回の随想で考えてみよう。

 退職金は日本独自の慣行だ。海外では解雇時の支払いルールはあるが、定年と一体化した制度はないことが一般的だ。この制度は国が定めたものではないから企業、団体次第だ。データでは約8割の企業で退職金制度があり、その平均額は1,983万円だ。この金額、ピーク時からは2割減とのことだ。扨て、そのルーツはと言えば、源流に江戸時代の商家の「のれん分け」にあると言われている。のれんは店の入口に掛ける日よけ用の布。これは屋号付きの布だから、それを分けるということは、同じ屋号で商いを営む権利を意味する。扨て、商人の伝統が何故、国家の工業労働者の制度に継承したのだろうか。

 明治維新後の富国強兵の過程の中で鉄道や造船などの官営の工業会社が重要な役割を担った。新しい技術を輸入しても使いこなすのは人だ。高い技能を獲得した職人的な労働者を囲い込むために、一定期間の雇用の保証とセットで導入されたのが期間終了後の「満期賞与」や「満期賜金」だ。一方、労働者側に於いても長く務めることが良いことであり、価値あることだとの「勤続思想」が生まれた。
 つぎの転機は、国が1936年に「退職積立金及退職手当法」を成立させた。具体的には、労働者と企業双方に退職に備えた定期的な積み立てだ。背景は軍需産業強化を目途としてヒト、モノ、カネを回すメカニズムを作り上げた。然し考え方として退職金は給与の後払い性格を残している。今後は雇用形態がメンバーシップ型からジョブ型へ変わろうとしている。こうした動きに掉さす1つが退職金制度ともいわれている。例えば退職金に対する税金は勤続年数が多くなれば控除額が大きくなる優遇策がある。人材の流動化を阻害し経済活力をそいでいるとのことで退職金制度を見直そうとの意見が上がっている。
 国は「居つく」メリットを減らし独立・転職を促す方向で、税制改正に動き始めた。同輩の方々、良い時にリタイアされましたね!!

 さて人生の卒業が近い筆者には、その終了の「退命金」はどこから出るのだろうか? 生命保険は60歳でキャンセルした。国や自治体からは出そうにもない、と言うことは、その発想そのものがあり得ない事であり、卑しいのだろうか。振り返れば我が人生、暖衣飽食を願ったが結果的は粗衣粗食だったことが起因しているのだろう。考えてみたら退命金を貰ったところで、使うことが物理的に叶わない。六文銭が幾つかあればそれでよし…。

2023年10月
  随想103 スパイ

 スパイと言えば、先ずは007で知られるMI6やCIA、旧KGBなどを思い浮かべるが、世界で優秀なスパイを育成している国々は、これらに中国の国家安全部が加わる。他にフランス、チェコ、ブルガリア、イスラエル、シリア、キューバ、そして意外と思われるだろうがバチカンなどが育成に定評がある。これらの国々で育成されたスパイが、現在オーストリアの首都ウィーンでの活動にその真価が問われている。日本と同様にスパイ天国と評される国だが、ウクライナへのロシアの侵攻に伴い、とみに諜報活動が活発化している。
 オーストリアには国際機関として国際原子力機関、通称IAEAの本部が置かれている。このIAEAや国際的人事交流などで情報が集積されていることは事実だ。この地は、旧東欧地域でありロシアが街中に保有する外交関連施設が多い。それらの屋上にはレーダーやドーム、奇妙な物置小屋が設置され、その一部はこの数か月前に作られたとの由。政府の情報当局者も問題ありと認めているようだが、自国政府を標的にしたものでなければ見て見ぬふりだ。当然欧州では、安全保障の高まりから、オーストリアの姿勢に疑問を呈している。

 一方、同様のスパイ天国である日本はとなると…‥。
 所管部署は複数に分かれているようだ。これから記す事項は一部推測の域を出ないものもあるのでお含み置き願いたいが、つい先ごろまで日曜日21時からTBS系列で放映された「VIVANT」にも、そのヒントが窺えた。
 その昔、日本にはスパイ学校が存在した、通称陸軍中野学校。ただその存在は7年間だけだった。然し、現在の体制と言えば主要各国に比べてその対応力の脆弱性は否めない。多分、それなりに対応はしているのだろうが……。
 海外情報を集める表向きのポストは、防衛省から外務省に出向し、各国大使館に派遣される海外駐在武官だ。筆者がお世話する「経済の勉強会」の仲間に、かつて某国に派遣された武官がおり、当該時の話を聞くことで「世界情勢」理解の一端となった。彼らは相手国の法律の範囲内で情報収集を行っている。

 一方、国内において各国からの諜報活動などを防ぐ部署として、各都道府県に配置される警察本部の外事課がその任に当たっている。東京都では警視庁の中にロシア・東欧を担当する外事1課、2課は中国・東南アジア、3課は北朝鮮担当、4課は中東の過激派や国際テロへの対応となっている。因みにVIVANTでの主役の1人は、この4課に所属する設定だった。
 更に内閣総理大臣直轄に、内閣情報調査室があり、国内外の政治、経済、治安の情報収集に当たり、その報告を総理官邸に上げている。然し日本の課題は他国には必ず存在する「スパイ防止法」がないことだ。そうしたこともあり、各国から日本に派遣されてくるスパイにとっては、重要情報が豊富で捕まりにくく、例え捕まったとしても重刑とはならない日本はまさにスパイ天国だ。言葉を変えれば、軍事、経済、技術などの情報が流出する状況に対し、日本が海外から入手するそれと比較すれば極めて少ないと言わざるを得ないと思っている。日本と親密な国々に於いては、駄々洩れの日本には高度な機密を渡すことに躊躇することは想像しうる。

 そこで登場するのが「VIVANT」にも設定として存在した組織だ。実態として存在の有無は不明だが、有るとすれば陸上幕僚監部運用支援・情報部別班、通称「別班」の存在だ。身分を偽った自衛隊員が各国で諜報活動をして、報告は首相や防衛相には上がらず、防衛省内部の一定の部署でとどまっている。文民統制、所謂シビリアンコントロールを逸脱した状況だが、現状の日本がおかれた環境からは絶対的に必要であり、スパイ防止法の制定と共に強化すべきと感じている。

 さて、筆者はビビリで小心者だ。とてもスパイには向いていない。ましてや別班のメンバーには、極めて優秀な人材が就くと言われている。その面でも失格だ。然し、スパイ映画の影響もあり、就きたい職務でもあった。然し仮に、もしスパイになれたとしても 相手国に捕まり、秋霜烈日の追及や拷問にでもかけられたら即白状し、国を裏切ることになっただろう。「007」のように、派手な立ち回りとランデブーそしてハッピーエンドの結末には、自分には無理であり、遠い世界の話だと思うが、憧れる…‥。

2023年9月
  随想102 魚離れ

 水産大国と言われた日本は、天然漁獲と養殖を合計した漁業生産量は1984年に1,282万トンだったが、40年後の今日では3分の1程になった。一方、国内の消費量の約半分は輸入に頼る状況だ。これには国内外の事情がある。今回の随想は、つらつらとその背景に迫ってみた。

 内的要因としては消費量が減ったことだ。1人当たり、食べられる部分の純食料ベースで01年度は40.2kgだったが、21年では23.2kgと消費はほぼ半分となった。これらの数値は05年には韓国に、直近では中国、インドネシアに抜かれつつある。農林水産省が20年に実施した調査資料では、魚離れの要因は複数回答で、肉類に趣向が移っている、価格が高いから、調理が面倒とほぼ同率の各40%前後とその理由を上げている。

 では、次に大まかに時系列的要因を見てみよう。1970年代から各国が200カイリ水域を設定したことで日本の漁船が締め出され、遠洋漁業が衰退しはじめた。1990年代には沖合漁業も主力魚種のマイワシに異変が生じ、海域にいる魚の量が激減した。更に2000年代に突入して海水温の上昇や海洋環境変化に伴い、魚の生態が変わってきた。そして2010年代となり中国が大型漁船を日本の海域のすぐ近くで操業することにより、サンマやスルメイカなどの漁獲量が落ち込んだ。
 更に国連海洋法条約により、資源減少魚種については資源管理を厳格に規定し、実行する責務がある。世界の漁業生産量は年間2億トンを超すが、海を中心とした漁業は1990年前後から頭打ちの状態だ。現在では約半数は養殖が占めるようになってきた。今後はこの養殖の比率が高まることだろう。

 その養殖には、海面養殖と陸上養殖とに分けられる。海面養殖ではクロマグロなどは完全養殖の域に達している。他に海面養殖の魚種としてはタイ、ブリ、ハマチ、クルマエビなどあり 生産量の23%はこの海面養殖によるものだ。然し、海面養殖は餌での海洋汚染が心配され、それに適した漁場は限られてくる。加えて、寄生虫リスクや漁業権など課題は多い。
 その点、陸上養殖はこれらの課題解消につながるが、一方、別な課題もある。施設の償却を含めた運営コストの高さだが、現在累計事業者数は120を超えており、異業種からの参入には目を見張るものがある。例えば、JR西日本は安藤建設と組んで山口県長門市でトラフグを、また、その「西日本」は他と組んで米子市でマサバ・ヒラメなどを生産している。関西電力はバナメイエビを静岡県磐田市で、三井物産の子会社FRDジャパンは木更津でサーモントラウトを生産している。水産会社と組んだケースもある。三菱商事はマルハニチロと組んで富山県でアトランティックサーモンを。勿論、水産会社も進出している。マルハニチロは山形県でサクラマス、鹿児島県ではニッスイがバナメイエビ等などがある。一方、カキ料理店を運営する企業が世界初の完全 陸上養殖でカキを成功させ、将来数百万個の生産を目指している。
水産資源の枯渇が懸念される中、陸上養殖ものは養殖全体の1%未満だが、今後の増産、またどんな企業が新規参入するかが楽しみだ。

 筆者は、悲しきかな養殖マグロのように絶えず水槽の中で泳ぎ回っているような性格だ。それもあるのか、この8月初旬、心臓疾患で緊急搬送された先が大学病院。検査・検査を繰り返し、最後にMRIで造影剤を入れての撮影。
 ところが、画像を読む読影医は多数在籍するも、心臓専門の読影医は1人。運が悪いことに当該の医師、撮影日のその当日から1週間の夏休み、そして、心臓内科の主治医は、その後交代するかのようにこれまた夏休み。チーム医療と叫んではいるが、ついてない事この上なし。彼らが戻っての手術、療養…。
 結果的に我が夏休み、暑さを避けて空調が効いた病院の中での1ヵ月。
どこか清々しい高原にいたと考えよう……。

2023年8月
  随想101 タコ

 この時期は酢ダコで一杯は如何ですか。下戸の筆者は、何時もは最後までのお付き合いは難しいですが、今日は「タコ」を肴にトコトンお付き合いをしますよ!

 タコはふ化直後、体長1.5mmで海中に漂いながら約2cmまで育つと、生活の場を海底に移し、約60cmまでに成長する。赤ちゃんタコの間は、ある種の動物プランクトンを食べているが、成長すると貝やカニを食べるようになる。
 そのタコの脳には数億個の神経細胞があり、この規模は脊椎動物のネズミと同程度と言われており、無脊椎動物の中でのタコは賢い方だと言われている。
実際、迷路の中に入れても8本の足にある無数の吸盤を自在に動かしてゴールにたどり着く。これを繰り返すと、時間短縮ができるというから学習能力は高いということができよう。
 加えて、呼吸機能を持つ漏斗(ろうと)と呼ばれる器官からは勢いよく海水を吹き、墨を煙幕代わりに放出して敵から逃げるなど、したたかな動物だ。そのタコは、敵から身を守るため皮膚の色を岩や海藻に似せるなど変幻自在に変えることができる。また東南アジアの暖かい海に生息するミミックオクトパスのように、魚やウミヘビの形を真似る擬態で敵を欺く種類のタコも存在する。
 因みに皮膚は透明な表皮の下に黒色、橙色、黄色の細胞が続き、その下は光を反射させる層、続いて白色細胞の各層が続き、その下が筋肉となっている。この各層の色素の細胞が伸び縮みをして、色や模様が変わることが解明されている。

 この日本には約60種類のタコが生息しているが、寿命は数年程度で、皆さんがよく食されているマダコは1年程度しか生きられない。現在の漁獲量は年3万トン程度で、1960年代後半の10万トン前後の3分の1ほどに落ち込んでいる。落ち込み分は、アフリカのモロッコやモーリタニアなどからの輸入で消費量を賄っている。因みに世界全体での漁獲量は年30万トンほどで日本はその半分に当たる15万トン前後を消費している。欧米ではデビルフィッシュと言われ内需は殆ど見られなかったが、低カロリーでもあることから近年の消費量は増加傾向にある。
 扨て、クロマグロやウナギなどは卵を産ませてからの完全養殖が可能となった。然し、タコはこの時代にあっても、未だ難しい状況にあるそうだ。

 「タコ」のイメージは、子供の頃、お互いに「このタコ!」と、けなし合いながら遊んでいたが、社会一般的には監禁同様の飯場を「タコ部屋」と呼称し、暗いイメージがあった。寅さん映画では「タコ部長」として、人は良さそうだが風体からしてうだつの上がらない人物が登場する。また、坊主頭の人を嘲ってタコ坊主と囃すこともあった。
 さてさて、こうして著わしてきたが、女房が今晩のおかずはタコのカルパッチョとタコライスと言っていたな!
 では、そろそろ帰宅としようか、あまり遅いと怒られそうだし!
 皆さんお元気でね! お先に失礼いたします!

 でも帰れば、「タコ君、おかえりなさぁ~い」と蔑まれ、こちらからは「イカ」れた老妻に、「只今、帰りました」と今や頭を下げる姿に成り下がっている。
 これも10本足の女房殿と8本の我との差だろうか…。因みに10本のうち2本は触腕という手なのだが…。となると足の数は一緒なのに、向こうの方が強いのは何故か?
 そうか、給料を運ばなくなるとこうも違うのか、情けない、の一言だ!
 じゃぁ~、最寄りの駅前にある中華ソバ屋で寄り道して、敵が寝静まったころに、帰ろう~っと…!

2023年7月
  随想100 人間とは

 この随想、毎月著すことで今回100回目を迎えた。時間にして8年有余だ。我ながらよく続いたものと思っている。今回は節目でもあるので、我々「人間」について触れてみたい。なお記念となる号数でもあることから、いつもよりは紙幅を多く頂くことに、ご寛恕頂きたい。

 扨て、先ずは人類誕生までを軽く振り返ってみよう。
 その前に、宇宙が誕生したのは138億年前、人間をはじめとするあらゆる生物が見てきた「星」が誕生し始めたのが、135億年前からだ。その後、46億年程前に地球が誕生した。昨今では、生物の大祖先は久遠の宇宙から地球にきたとの説が強くなってきているが…。
 然し、公というか定番的に歴史を辿れば、約35億年前に生命が海の中で誕生した、となっている。その海では、やがてバクテリアが現れ、4億年前に植物、更には昆虫、両生類などが陸上に次から次へと海から上がってきた。2億年前には恐竜が現れ、6500万年ほど前に、隕石の地球への突入と衝突でその恐竜は消滅した。
 500万年程前には我々の祖先である猿人が登場し、そして新人類は20万年前に誕生した。その誕生の地であるアフリカを出て世界各地域に散り、分布域を広げはじめたのが6万年前からだ。(これら年代と事象は、今日に生きる誰もが見てきたわけではないので、「講釈師見てきたような噓をつき」の世界だが…。)
 その新人類は火、言葉、美、時間を得て文化を進化させ、生息地の環境に順応してきた。そして今日の人間は、地球上に3,000万種と言われる生き物の頂点に立ったかのように振る舞っているが、それは本当にそうだろうか。
 その人間の眞正・神髄までをデカルトやカントのように、難しくは迫れないが、精神性を含めて80年弱前、この世に生を受けた経験から記してみたい。

 地球の各地に散った人間は、地域ごとに異なる動植物を食料資源として火を自由に操り食生活を送ってきた。その上で祖先が得た知識や技法そして様式を子孫に受け継ぐ手段として、言葉を活用し、記憶してきた。加えて醸成された固有の美意識は社会規範となり、結束を強める機能となった。更に時間を認識して、それぞれの世代が得た経験や知見をつなぎ合わせて、時間軸に置き換えて体系化し、事実に基づいての推論を可能としてきた。
 扨て、その人間はもともと孤独には弱い。その為に言葉を得て、表情や身振り手振りの表現を加えてきた。他の動物には見られない手段を身につけてきた。つまり進化の過程の中で言語を獲得し、意志を言葉で発する術を覚え、内に秘めた感情や感性をも体の一部を動かし表現力を高めてきた。
 そして頭脳を発達させ、知を得た。然しどうだろうか、「心」は高度に発達した知識社会に追いついているのだろうか。先に、広島で開催されたG7の声明を見ても、戦や分断、はたまた経済の課題についても、主要各国の俊英が討議を重ねたものにしては、そこに「知」があったのだろうか。
 その「知」、人類の無限の未来を拓くのも、自滅に追いやるのも双方とも知の為せる業だが…。こうした行為が人間に代わって、AIを通じてのロボットで可能となる時代が到来するという。恐ろしく怖い世界に突入するのではと不安に駆られる。然し、我が身の余生の短さから、それら事象に遭遇することはなかろうが、血のつながる子孫たちが経験することを思えば忍びないことだ。

 さて、視点を変えてみよう。
 それとなく人は悠久の夜空を見上げる。そこには月があり、星が目に飛び込んでくる。その星には明るさに強弱がある。
 見かけの星の明るさは、距離の2乗に反比例して暗くなる。然しその距離にある星の数は、距離の2乗に比例して増加する。つまり遠くからくる光の量は、近くからと同じなのだ。こんなことを思って星を見上げていると興ざめするが、無心で観れば心が洗われる。
 心が洗われれば、多くの人間は真に生きようとする。それは清廉潔白でなければならない。特に上に立つ人間ほどそうであろう。英語の慣用句に Caesar’s wife must be above suspicion「シーザーの妻たるものは疑惑を招くことをしてはいけない」と、その配偶者までをも縛っている。中国にも同様に意味する故事がある。『瓜田不納履、李下不正冠』つまり、「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」と。
 意味は瓜の畑の中で靴を履き直すと、瓜を盗むと疑われる。更に付言すれば、人に疑われるような行動をとるな、と解釈できよう。筆者には70有余年の人生で、淀みを積み重ねたことで「清廉潔白」には程遠いが…。然し、この真理を追究する気持ちは幾分なりとも残っているつもりだ。これこそが人間の存在そのものの隠喩であろう。

 こうした道程、つまり畢生の中では艱難辛苦は存在し、そうした折に風の如く寄り添ってくるのが宗教だ。その宗教に対して、しばしば批判が生まれるのは、それが科学的に論証されていないと見なされるからだろう。宗教は神について信じてはいても、はたして「神が存在するのか?」との論証ができていないと言われつづけている。
 逆に、「神が存在する」を論証したなどと言おうものなら、オカルト的な心霊主義と見なされてしまう。こうして、宗教とは、科学的に証明できないものを、いわば迷信のように信じることだとされる。欧米では、最先端技術の開発に従事する人間が、休みの日に熱心に教会に通う人が多い。無信教の筆者には考えさせられるところだ。
 現在はその宗教の力は衰えるどころか、世界各地でその力を発揮している。勿論、地域や人によって信ずる宗教は異なるが、宗教の基本である「信じる」には変化はない。然しこの「信じる」対象となる神は、人間自身を理想化したものではなかろうか。つまり神が人間を創ったのではなく、心に優しさを内包する人間が神を創ったのだと、筆者には思えてならない。つまり「人間は無力、神は全知全能」との社会常識には疑問を残すと記せば、信仰に篤い方々からお叱りを受けるだろうか。

 扨て、堂々巡りだが人間とは何なのだろうか。
 生まれたての体には知恵はない。が、そのうち脳が体を支配し、脳の指令で自らの体を破壊することもある。まさに自死はそうだろう。一方、脳が衰退し体が追いかけて哀萎していく、まさに老衰で一期を終える人もいる。その後は、輪廻転生が続くと謂う人もいる。
 考えれば考える程、闇の中に入り込む‥‥‥。

 さてさて、現実に立ち戻って、我々世代は残りの人生、如何に過ごすか?
 筆者個人的には、無駄と思われる時間を大事に過ごし、今までの車窓から見るような景色を、自分の足で歩く速さで、虫の音色が集(すだ)くを耳にし、
 のたりのたりで、心の奥深くのモノを含めた万物を見ていきたい‥‥‥。

2023年6月
  随想99 ボーナス

 ボーナスとは、ラテン語で「財産」や「良いもの」を意味する「ボヌス」が語源とされている。賞与や一時金と同義で、国内では1954年にはボーナスという言葉が使われたとのことだ。人事院によると民間企業での制度が広がったことにより、1952年から国家公務員にも支給されるようになった。
 扨て、そのボーナスシーズンがやってきた。我々同期ではこの時点で支給される人はほんの一握りだろう。然し、過去のバブル期には支給された封筒が立った方も多かろう。そんな時代に思いを馳せて今月の随想をご覧ください。

 ボーナスの原型は、江戸時代に商家で番頭らへ年の瀬に渡される習慣があった「餅代」や「お仕着せ」だとの説がある。一方、奉公人たちが新年を迎えるための出費に充てるお金として雇用者の配慮で手渡されたとの話もある。何れにしても、明治以降の近代的会社組織に於いて初めて支給したのは三菱の総帥、岩崎弥太郎だと言われている。具体的には1876年、三菱グループの起源でもある郵便汽船三菱会社、現在の日本郵船の社長だった弥太郎が賞与との呼び名で船員を始め現場社員までに、一律で支給した先駆けだったのだ。
 背景は、郵便汽船三菱会社が1874年に政府の台湾出兵に協力したことで急成長し、翌75年に上海航路を開設した。事業を拡大する中で中国や日本の周辺海域の航路で英国の船舶会社と顧客獲得を巡って、価格やサービス面で激しい競争をした。三菱は社内のリストラや経費節減を重ねるなどして運送料を抑え、顧客を確保した。その結果、英国企業は周辺海域から撤退した。こうした激しい競争の中、頑張った社員に対し慰労の意味もあったのだろう。1888年からボーナスは制度化され、毎年支給されるようになった。
 一方、国内のインフラの整備が進むにしたがって1881~84年には、鹿島建設や清水建設などでも同様の制度を取り入れている。明治末期以降、工業化が進むことで長期的に雇用を確保するため賞与支給を導入する企業が広がり、国内に根付いた。

 海外では日本のそれとは異なり、労働のインセンティブとして一時金が支払われるケースが多い。例えば目標やノルマを達成した時に支給され、日本企業のように全社員への相当額が支払われるような仕組みはない。但し、医療費補助など福利厚生の拡充を対価とする場合や会社の株を割り当てるケースもある。

 扨て、かつてボーナス支給時の我が家での情景を恥ずかしながら披露しよう。給与はもとよりボーナスも、女房殿が管理する我が名義の通帳に振り込まれる。そこから、一定の金額を封筒に入れて「ご苦労様」と言われて手渡しされる。封筒の中身を見てから、恒例の「我がボーナス闘争」が始まる。

「この金額じゃ半年はやっていけないよ!」と投げかければ、
「先月、高額な家具を買ったでしょ!だから…」と返ってくる。
「では毎月の小遣いを上げて欲しい」と懇願すれば、
「では家計費で負担する貴方の衣料費は自己負担して下さい!」と…。
「それでは、俺は奴隷そのものではないか」と語気を強めれば、
「そうです、私は看守であり、この家の大蔵大臣です」と冷静に宣う。
 それを聞いた自分は、毎回スゴスゴと尻尾を巻き、うなだれて寝室へ…。

 こうした応酬が、退任する10年程前までの我家のボーナスシーズンの風物詩。
 今では懐かしい、負け戦覚悟の夫婦の会話でもあった……。

2023年5月
  随想98 大阪

 町人の町・大阪が江戸中期以降「天下の台所」として日本経済の中心地となった要因は、糸へん産業の発展とコメの先物取引だろう。
 そもそもは、豊臣秀吉が大阪城とその城下町を築く際に、惣構掘(東横堀)の西に町屋地域を造り、各地から町人を呼び寄せ、船場の繊維問屋へと発展していった。繊維問屋があることから畿内の周辺地域に木綿製品を始めとする手工業品性産業が発達し、更に繊維製品を取り扱う新興の問屋が船場に多く誕生した。昔の繊維問屋の多くは、無理に利益を得ようとせず、堅実な商売を続け暖簾を守り抜こうとし、奉公人を店に住まわせ、常に経営者の顔が見える位置で仕事に当たらせていた。こうした経営姿勢は現在に通じるものがある。

 明治以降、域内の繊維工業の発達は1882年設立の現材の東洋紡に通じる大阪紡績が設立され、その成功を見て1887年には現在の大和紡績となる、若山紡績が設立された。その2年後の1889年には、現ユニチカとなる尼崎紡績が設立された。こうしたメーカーが大量の繊維製品を生産してくると、江戸時代から続く問屋に加えて、新興の問屋も参入してくる。「関西五綿船場八社」と呼ばれる勢力図が出来上がってきた。その五綿と言われた東洋綿花(現「豊田通商」)、日本綿花(現「双日」)、江商(現「兼松」)、伊藤忠商事、丸紅は、総合商社へと発展していく。
 一方、大阪の主力産業だった繊維業も朝鮮戦争の特需とその反動があった。そして日米繊維産業の曲折を経て、現在ではアジアの新興国の安価な製品に押されて厳しい経営環境下にあり、船場の繊維問屋もかつての賑わいからは程遠い存在となった。然し、大手繊維会社は炭素繊維や各種新素材を生み出し、新しい時代に入っている。

 視点は変わるが、江戸時代の経済は米本位制だった。各藩の経済規模は米の収穫高で表された。各大名は農民から年貢米を自己消費分と家臣団への扶持米(所謂給与分)を引いた残りを売却して藩の財政に充てていた。その米の取引が主に行われていたのが大阪で、その大阪には淀屋をはじめとした米取引で財を成した豪商が数多く現れた。

 その米を取引する米市は場所をとることから、米を直接は扱わず米の売買が成立した証として手形を発行して、受け取った者が手形と米を交換することが行われていた。その現物取引が手形の売買に移行した。この手形を米切手と呼び、徐々に流通証券の性格を帯び、為替の代用だったり、支払いに利用、果ては転売にも利用されていた。先の淀屋の米市で行われた帳合米取引は世界の先物取引の起源とされている。
 具体的には諸藩で翌年以後の将来の収穫分の米切手をあらかじめ発行して藩の財政赤字を埋めようとした藩も多く現れた。つまり在庫以上の米切手が発行される状態となった。不渡りを恐れた江戸幕府は、諸藩に米切手の発行規制をかけ、商人たちには米切手の保護策を打ち出した。然し、先の淀屋は一時期、総資産約20億両、現在の価値では約200兆円規模であり、淀屋の米市では安心感から商いが膨らんでいた。つまり知恵と信用の地で花開いた先物取引は、現在でも日本唯一のコメ先物市場として大阪堂島商品取引所内で2011年に復活している。

 扨て、筆者が江戸時代での淀屋の当主だったら、淀屋橋などの橋は架けず、掘割なども造らず、唯々小判を貯めて、その小判を夜ごとニンマリしながら数え、その数の多さに疲れて寝ることになるだろう。然し、その深い眠りの中で夜陰に紛れて侵入してきた盗賊団に殺されているかもしれない。
 嗚呼、自分にはやはり片田舎の貧乏百姓が一番似合うのだろう。であれば、そろそろ田植えの準備をしなければ…。

2023年4月
  随想97 詩人ダンテ

 1265年、イタリアのフィレンツェに生まれたダンテ・アリキエールは 世界文学の最高傑作とも称される「神曲」を、40歳を過ぎて執筆を開始した。14年間を掛けて完成させ、その年に56歳で亡くなっている。日本では、昨年のNHK大河ドラマの鎌倉時代の後半に当たる。彼が本当に求めたのは政治家としての成功だったが、政争に敗れて故郷のフィレンツェを追放され、各地を転々とする苦境の中で書き上げたのが神曲だ。

 その神曲は、ダンテ自身が主人公となって「あの世めぐりの旅」そのものだ。
「この門を過ぎんとするものは、一切の望を捨てよ」。
 そう刻まれた門をくぐり、先ずは地獄へ案内、生前の軽い罪をきよめる煉獄。そして光に満ちた天国へと、死後の世界に興味津々の中世ヨーロッパのキリスト教徒などの読者たちを惹きつけた。
 元の題名は「神聖喜劇」、それを「神曲」と訳したのは森鴎外だ。「この門を…」の警句は夏目漱石が訳して、短編「倫敦塔」に引用したものだ。このように神曲には文豪が訳し、引用したがる名文の数々が含まれている。

 例えば地獄編では第1歌で
   人生の道半ば、気が付くと暗い森のなかにいた。
 第3歌では
  慈悲も正義も奴らは馬鹿にする。彼らについては語るな。ただ見て過ぎよ。
 煉獄編では第5歌で
  みんながひそひそ話すのが気になるのか?  勝手に言わせておけ
 第11歌では
  名声は、草や葉のように、外に出ている間にまた消える
 天国編では第4歌で
  意志は、みずから願うにあらざれば滅びず

 何れにしてもペンを自在に滑らせ、恨みのある相手を地獄に描き、汚泥に沈めたり火あぶりにしたり、教皇であっても地獄の炎で焼いてしまう。更にイスラム教の預言者ムハンマドを地獄に落としている。一方、自分には甘く、少年時代に出会い 一目ぼれのベアトリーチェに生涯片思いを続けたが、作品の中ではその女性に助けられ生きながら天国へと。作者の特権とはいえ、やりたい放題のストリーだ。
 然し、矛盾や二重性が有っても人間的古典だから人気があるのだろう。例えば、神を恐れずひたすら知を求めた末に地獄に落とされた英雄を描いた場面では、彼は英雄に「(人は)獣のように生きる為でなく、徳と知性を追い求めるべく造られた」と語らせている。つまりダンテは信仰と、知を追い求めることの間に葛藤があったのだろう。
 古代ギリシャで優れた詩人は月桂冠の冠が与えられたことから、ダンテは桂冠を頂いた姿で描かれている。そのダンテの葛藤は、現代に置き換えれば人間がひたすら知を追求することは罪なのか、と言うことになるのだろうか。

 楽曲の世界では、チャイコフスキーの幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」で、「神曲」地獄編で描かれた悲恋を題材にしている。またリストは「ダンテ交響曲」を残している。更に東京の国立西洋美術館の前庭には、ロダンの彫刻「地獄の門」があり、我々の身近に「神曲」は存在している。
 勿論、文庫本でより身近に触れることも可能だ。何れ天国に昇るあなたには必読書かも・・・。小悪事を重ねてきた筆者は地獄に落ちるは当然故、地獄編のみを何れ再読いたします。

2023年3月
  随想96 掛け声

 落語家が高座に上がると大きな拍手と共に「待ってました!」と声がかかる。また御贔屓の師匠にたっぷり演じて欲しいという意味で「たっぷり!」と期待を込めた一声が掛かる。歌舞伎では「大向こう」と呼ばれる歌舞伎座の上階から「日本一!」とこれまた声が掛かる。また役者の見せ場では、屋号が飛び交う。「中村屋!」、「高麗屋!」などと。
 更には、浪曲では節の切りのいいところで盛り上げるために「大統領!」と声がかかる。また衝立の奥に三味線を弾く曲師がいて、節や三味線はその都度変化するが、浪曲師が例えば「変な真似をすると承知しないよ」と語ると、客席から「どうする、どうする」と声が掛かる。こうした舞台と客席とのキャッチボールを浅草の木馬亭などで聞くのも、これまた、乙なもの 。
 今月のお題は、このように「掛け声」にしました。

 日本には数々の芸能が存在するが、名人の上手な芸だけでは物足りない。ここぞという場面で、客席から飛び込む絶妙な「掛け声」もまた、場を盛り上げること然りだろう。
 歌舞伎で、要所で掛け声がないと締まらない。掛け声名人には「木戸御免」という入場料免除の待遇が与えられるほどの大事な存在だ。屋号を発する鋭い掛け声は、ご贔屓の演者を引き立て、芸能の構成要素の一つとなっていることは明らかだ。
 落語界では、持ちネタや趣のある地名、例えば「稲荷町」「黒門町」などと呼ばれた名人がいたが、ふざけた掛け声では名人の住んでいるマンションの下にあるファミレスの名前を掛け声代わりにした客人もいたと聞くと、そのご仁は、「通」から、だいぶ離れた嫌味の部類の方なのだろう。
 海外ではクラシック音楽やバレーなどの西洋の古典芸能では、一般的には「ブラボー」と声を掛けるのは最後に掛ける。外国人が歌舞伎などを鑑賞している最中、途中で掛け声がかかるのは、奇異に映るのではなかろうか。

 扨て、掛け声をかけるには修練が必要だと聞く。ではどんな?
 何より大事なのは劇場に頻度多く、先ずは通うことだろう。そして元NHKアナウンサーの山川静雄氏が指摘している。それは「役者の気持ち、下座音楽或いはチョボと呼ばれる義太夫節、それに『間』の三つだ」と、著書「大向こうの人々」に記している。

 野球でも、かっ飛ばせを意味して「かっせかっせ!」とか、ナイス選球眼を「ナイセン!」と声を掛ける観衆が多い。
 筆者が大阪勤務時代、甲子園で「頑張れガンバレか~け~ふ!」とか「かっ飛ばせ♫~・かっ飛ばせ♫~バぁ~ス!」と周りの人と一緒に叫んだものだ。但し、
 カードが「中日」の時は、周りの観衆に袋叩きに合うのを恐れて“心の中”で「打つな・打つな掛布!」、「空振り・空振りバぁ~ス!!」と、呪文を唱えたものだ。兎に角、節操のない甲子園通いだった。

 さて、何故君は中日のファンなのか、との声が聞こえてきそうなので、お答えしておきます。その昔、今は老醜を晒す我が身にも、紅顔の美少年(?)時代がありました。その頃は巨人ファンで、ハワイから来た3人組、広田、宮本、そして与那嶺が好きでした。特に大好きだった与那嶺が中日の監督に移籍してからは、中日ファンとなりましたが、昨今の不甲斐ない成績で熱は冷めてはいますが…。

2023年2月
  随想95 逝く

 今月は私事で恐縮なテーマであり、その内容にご寛恕頂きたい。
 1か月超前の昨年末、筆者は母を亡くした。享年は100歳に丁度2か月足りない99歳と10か月の生涯だった。死因は当然老衰とやらだが、食欲が落ちて1週間も経たずに冷たい骸となった。

 約四半世紀弱、外階段でつながる一つ屋根の下で一時は父共々一緒に暮らし、亡くなる4年前からは施設に移って、介護のベテランの方々にお世話になった。コロナ禍でもあり、昨今の面談は規定として1ヵ月に1回、窓越しでの面会だった。面会する度に母からは「連れて帰って!」と、施設の丁寧な対応にも関わらず声を掛けられる。自宅での入浴はもとより、移動や排便などに身体的事由で難しさが残り、施設の入居で我慢をしてもらっていた。
 然し、掛けられる言葉には重みがあり 施設を後にするときのなんとも言えない、心の澱みが、足に重りをつけた感となり家路に向かうことになる。今は形が変わって自宅の後飾りひな壇に遺骨として戻り、祭られているが、これも49日の忌明け法要が終わるまでだ。お坊さん曰く、「仏教では輪廻転生の思想から、人が亡くなって49日の間は再び生れ変わるまでの準備期間だ」と、聞かされていた。その祭壇の前で、母を振り返る日々が続いている。

 7人兄姉の末っ子として生まれ育った母は、甘やかされて育ち自分の意思を通し、父も苦労したことだろうと推察している。その母が、知る限りでは最初で最後の涙を流した場面を目にした。筆者が小学生の高学年の折、祖母が住む函館から青函連絡船に乗船した。祖母と母を結ぶ紙テープが、出航の合図であるドラの音と共に切れた時、しゃくりあげて泣く母の目には大粒の涙が…。今生の別れと感じたのだろう。その母との今生の別れを未練たらしく、喜寿が過ぎた筆者が今、偲んでいる。 セラー服に身を包む姿で写真に残る時代が過ぎ、北海道のデパートの店員として働き、結婚。疎開を兼ねて新潟市の父の実家で農作業を半年ほど手伝ったことを後々、何十年も従事した如く愚痴るのを辟易としながら聞いたものだ。確かに生まれ育った函館は、当時では都会そのものだった。市電の営業キロ数は長く、瀟洒な教会やデパート、繁華街など今のそれと変わらなかったらしい。
 それもあってか、後年ダンスや油絵、短歌、俳句などにのめり込み、遺品を整理し始めたら関係する品が出てくるわ、出てくるわ…。
 80歳を目前とする筆者は鬼籍に入ってもおかしくない年齢だが、今回ほど真剣に生と死に向き合ったことはなかった。そしてやっと「人の子」から脱却し、自らの子や孫に本格的に目を向けることが可能となった。

 扨て、今回は何とも辛気臭い話で恐縮だったが、次回以降は楽しい話題に変えていきたい。尚、我々の年代には応援歌ならぬ生きる指針と思われる幾つかの語句を並べて今月の随想は終えよう。

 六十を過ぎて大宰府に飛ばされた大伴旅人は
 ──生けるひと 遂に死ぬるものにあれば この世なる間は 楽しくをあらな
 「このはしわたるべからず」の頓智で有名な一休さんのモデルとなった一休宗純は
 ──世の中は 起きて稼いで寝て食って さてその後は死ぬるばかりぞ
 解体新書を著わした先駆的な杉田玄白は
 ──過ぎし世も 来る世も同じ 夢なれば けふの今こそ 楽しかりけり
 小説家で中尊寺の貫主を務め、一時毒舌和尚として名を馳せた今東光和尚は
 ──人生は あの世までの 暇つぶし

 歌ばかりではなく、ゴッホやマネが驚嘆したあの富岳三十六景を葛飾北斎が描き始めたのは、70歳を過ぎてからだ。それも江戸時代の平均寿命が30歳代半ばと言われる中で……。

2023年1月
  随想94 美食漫遊

 正月を迎えてお節料理を口にされ、時を置かずに七草粥と、日本では食に関する文化が豊富だ。また世界的にも日本料理の評価はヘルシーであることに加え、目を楽しませ、舌をうならせ、香り、更には器に至るまでを食文化とすることで高い評価を得ている。
 今回の随想はそうした我々が知る食文化から離れて、筆者がこれまで歩き、口にした各地の美食と言われる料理をご紹介したい。必ずしもその地域を代表するものではないが、読者の皆さんもご存じで舌鼓を打たれた料理もあろうかと思います。是非、その折を思い出してみてください。尚、今回はお正月であることに免じて紙幅を多少多めに頂きました。

 それでは、早速お隣の国、韓国から西回りで世界一周「食巡り」に出発しましょう。
 韓国は先ずは「参鶏湯(サムゲタン)」でしょう。鶏のお腹にモチ米、ナツメ、高麗人参、松の実、ニンニクなどを詰め込み、長時間骨がホロホロになるまで弱火で煮込んでいる。黒い烏骨鶏は白い鶏よりも薬効が強いそうだが、参鶏湯そのものは薬の一種との解釈もあり、その昔は皇帝しか食せなかった由。
 つぎは、世界3大料理に数えられる中華料理だ。中華料理そのものは、多岐・多種にわたるが、そのほとんどが美味だ。その中でも清朝の西太后が食していたと言われる「宮廷料理」、食卓には毎回150品は並んだそうだが、現地のレストランではその何種かをアレンジして食することが可能だ。

 東南アジアにも美食はありますよ。南に下って、タイの「ソムタム」を紹介しましょう。これはタイの東北部の郷土料理になりますが、パパイヤのサラダだ。青いパパイヤ、つまり未成熟状態のパパイヤはシャキシャキと歯ごたえがあり、柑橘系の酸味とピリッとした辛さを持っている。そこに川ガニの塩辛が入ったものだ。首都バンコックの屋台でも食することは可能だ。
 扨て、世界で人口数がトップを目前にするインドは、ナンとカレーのイメージだろう。然し、インド人にとって「カレー」という料理はなく、小皿に入ったものはカレー風味であっても、それぞれ固有の名前を持つ別々の料理のようだ。筆者がサラリーマン生活を終えた翌年に、身分不相応なホテルで食したナンは、当然特別な窯で焼いたもので、雰囲気も含めて何とも言えない格別においしいものだった。

 次に、西北に向かえばシルクロードの交差点となるウズベキスタンがある。ここでは国民食「プロフ」がある。ピラフや炊き込みご飯を豪華にしたようなもので、各地の産物や各家庭事情によりその中身は多少異なるようだ。ベースは米、羊肉、にんじん、玉ネギ、ヒヨコマメ、レーズンなどを炒めたものだが、ホテルなどで出されるプロフの味はマイルドに仕上げている。
 ではカスピ海を挟んでトルコに向かいましょう。皆さんがイメージされるのは「ドネルケバブ」でしょうか。1mほどの剣のような串に薄い羊の肉を重ねて刺して、回転させながら肉の表面をあぶり焼きしたものだ。焼けると刃の長い包丁で削ぎ切り、パンに挟んで食す。街中の道路際の露店などでもトルコアイス同様に口にすることができたが、衛生上は如何なものだろうか。

 洛陽・西安から始まったシルクロードの最終の地ローマのあるイタリアでは、イタ飯と呼ばれるほど独自の料理が多い。オリーブやトマト、オリーブオイルを多用しての魚介類料理は南部、北部はスイスやフランスの影響を受けてバターや生クリームを多用した料理が多い。その北部のフィレンツェで食した「ビステッカ・アッラ・フィオレンディーナ」が印象的だった。肉をじっくり、時間を掛けて熟成させた子牛、若しくは未経産牛の骨付大ステーキだ。脂身がなく意外とさっぱりとしていた。
 次はスイスを挟んでの国フランスだ。所謂フランス料理は今や世界どこでも食すことは可能だが、「グラチネ」は如何だろうか。オーブンなどで加熱して料理に焼き色をつける料理をグラチネという。前菜からデザートまでいろいろだが、厚ぼったい器にパンとスープがこびりついたオニオンスープは印象的だった。

 では赤道を大きく跨いで南アフリカに飛んでみよう。ここでは農民風ソーセージと言われる「ブルボス」、ダッチオーブンによる煮込み料理「ポイキーコース」などが日本人の口に合うだろう。そもそも労働者として移民してきたマレーやインド系住民の末裔が多く、彼らのルーツを遡る食文化が目につく。
 10数年前だが、アフリカ最南端のケープターンのショピングセンターに入った。そこで、カウンター形式で握りずしを食す人たちを見たが、手元を見れば、とても日本伝統の寿司とは思えない形のものを手に挟んでいた。

 さァ~て目の前は大西洋、一気に北西に向かって渡りましょう。次は米国だ。50年弱前に、サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフで食した茹で上げられたロブスターに、溶かしバターをつけて食べた記憶は美味の極の一つとして、未だに舌に残っている。
 続いては、南に下って南米ペルーまで行ってみよう。ここでは「セコ・デ・ポージョ」を挙げてみよう。牛や鶏の肉などを使って野菜などとコリアンダーソースなどを使い、炒めてコメの上にのせて食している。先住民のインティヘナやスペイン、黒人、中国人、日本人などの影響を受けたものだなと感じる。
 最後は南半球をそのまま西に向かい豪州に上陸しよう。記すは「カーペットバッグステーキ」だ。この料理は単純だ。牛のブロックに切れ目を入れて、そこにカキを挟み 焼き上げる、極めてシンプルだが双方の旨味が絡み合い抜群だ。

 さてさて、ここに紹介した以上は、ご希望する方々全員に現地から取り寄せ、無料でお好きな品々をお届けすべきは“至極当然”のこと…。
 誰ですか? 「ョ!! 太っ腹~」と叫んでくれたのは…‥。
 がしかし、色々調べたところ、残念ながら未だ世界的に航空便などの流通網の縮小、停滞が続き、適宜のお届けが叶いません。船便ですと腐ってお腹を壊す方もおられますので、まことに“残念至極”ですが手配を断念いたしました。就きまして、香味は味わえませんが、姿かたち色味などを是非パソコンやスマホなどで、確かめてみてください。