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2019年12月
  随想57 鑑真

 年の瀬となると街の隅々までクリスマスソングが流れ、その飾り付けが至る所で見られる。日本に居ながら欧米文化の最たる浸透を感じる行事ではなかろうか。
今回はその文化に抵抗するものではないが、仏法に触れてみたい。それも海外に関係あり、今から1260年程タイムスリップしていただくことになる。
 そうです、時空は8世紀、中国・長江の下流の北岸に位置する水と緑が豊かな江蘇省楊州市、街の北部の小高い丘に「大明寺」がある。そこの住職が今回の主人公だ。

 その主人公の名前はもうご存知だろう。井上靖の歴史小説「天平の甍」でも記された「鑑真」だ。14歳で出家し僧侶が守る規律「戒律」を研究した人物でもある。長安で修業を積んだ鑑真は26歳ごろ故郷の揚州に戻り、多くの寺の建立や仏像の造立に携わっている。やがて僧侶になる人に戒律を授ける「授戒」を行う高僧と認められている。
 その当時は唐代、その揚州は中国を南北に結ぶ大運河の要衝にあり、インドやアラブからの来航者で賑わう国際都市だった。日本からの遣唐使もこの地を経て、長安に向かっている。つまり鑑真の国際感覚は揚州にいたが故、育まれたものであり、来日する土壌が出来ていたのであろう。
 彼が55歳の時、日本の留学僧の栄叡、普照の訪問を受けた。その趣旨は、日本には授戒ができる僧侶がいないことから招請したいとのこと。鑑真は周りの僧侶に「日本に行って仏法を広める者はいないか」と聞いたが誰も応えず、ならば自分が行くと宣言をした。
 その折、鑑真が発した言葉は「これは仏法のためであり、なぜ身命を惜しむのか。誰も行かないのであれば私が行く」と。然し日本の地を踏むのはそれから11年後。渡航のための船は何度も難破し、6度目で成功した。然しその間に視力は落ちたが初志を貫いた。

 渡航後の鑑真を知る人は、歴史に興味がある人だけではなく広く知られているが改めて簡単になぞってみよう。753年、66歳で日本に来た鑑真は、東大寺に戒壇を作り、聖武上皇など多くの人に授戒を行い、唐招提寺も創建した。そして当時の中国の僧は一般的に医薬の知識を持っていたが、鑑真もより精通していたことから、日本では医薬の祖として崇め奉られている。
 唐招提寺で鑑真和上の座像を拝観された方もおられよう。毎年6月5日~6月7日まで開扉が行われる。因みに拝観料は600円だ。
 話を中国に戻そう。大明時には唐招提寺の鑑真和上坐像を模した木像も安置されている。中国で50年ほど前に文化大革命があり、宗教が否定され各地のお寺は破壊対象となった。然し、周恩来首相より日中関係において大切な寺は守るように指示が出されたことで大明時は無傷だった。

 尚、筆者は、来年4月1日付で「経済と宗教」を電子書籍的にメールにての発刊を予定し、現在執筆中のこともあり、「今回のテーマ」を選んだ。因みに前回のテーマは来年から商用化が始まる5Gを採り上げ「経済と5G」とし、この11月に配信を終えている。暇つぶしとボケ防止で執筆を進めていることもあり、配信は無料にて実施しているので ご興味ある方はお申し出ください。

2019年11月
  随想56 古布から紙へ

 751年、世に言うタラス河畔の戦いが中央アジア、現在のキルギスのタラス地方で唐とアッパス王朝の間で繰り広げられた。結果は唐の軍隊の大敗で終わった。その折、唐軍は5万人が殺され、2万人が捕虜となったと歴史書には記されている。
 この捕虜になった人々の中に紙職人が多くいた。このこともあり、タラスから西方へ300km強のシルクロードの十字路ともいわれている、現在のウズベキスタンの主要都市サマルカンドに750年代に製紙工場ができた。今日でも「シルクペーパー」として名を馳せ、伝統が息づいている。またこの街で、吸い込まれるような空の青とマッチしたイスラム寺院の同色に見惚れて、暑い中筆者は数時間も佇んだ記憶が蘇ってくる。
 この街から40年弱後の790年ごろにはバグダッドに、そして900年頃にはカイロに製紙工場ができている。そして、アフリカの地中海沿岸を西に向かってこの技術は伝播し、1100年頃にはモロッコに、更に1150年頃にはイベリア半島のスペインにもそれぞれ製紙工場が出来ている。この製法はイスラム圏を通じて、欧州に伝わった。

 そもそも紙の製法は、後漢時代の中国で蔡倫が皇帝に紙を献上したことを以て確立したとされている、時は西暦105年だ。用いた材料は樹皮や古布、漁網などだった。これらを叩いて繊維を細かくほぐし、その後水で溶かし、簀ですくってシート状の紙を作った。
 一方、唐の軍の西域に向けた拠点だった現在の新疆ウイグル自治区のトルファンで出土した7~8世紀の古文書を、解像度デジタル顕微鏡で調べた結果28点中24点が、古布が素材と判明した。それも藍色の布を素材にしたことまでが分かった。当時、下級兵士が着る軍服の色が藍色だったことから、それらの古着が紙製造に転用されたと思える。
 そのトルファンでは当時桑などが栽培されていたので植物がなかったわけではないが、軍にいた製紙「職人」は植物からの製法には疎かったのだろう。確かに植物の樹皮から作るにはアルカリ性溶液で煮て、植物中のたんぱく質を取り除くなどの工程に伴い大量の水が必要になる。叩いて繊維をほぐせば紙の素材になる古布に比べて手間が格段にかかる。故もあり、布からの製紙が主流だったのだろう。
 因みに、1776年のアメリカ独立宣言が印刷されたのは麻から出来たものだ。
 ナイル川に群生するパピルス草(papyrus)を材料にして、紙が出来ていたことは皆さんご存知の通りだ。そのpapyrusは英語のpaperやフランス語のpapierの原語でもあることを、エジプトを訪れた際博物館の方から説明を受けた。

 紙の原料は楮、三椏を始め幾つも存在するが石油由来のものもある。日本では選挙用に使用される投票用紙、水にぬれても大丈夫なポスターなどに使用される合成紙だ。石油化学から作られるポリプロピレンという樹脂が原料となっている。製造は王子製紙と三菱ケミカルの合弁会社で製品化され、海外にも輸出されている。
 来年からは5Gが商用化されることで、IoTやAIの機能が一段と進化し、紙の需要は逆に更に減少することだろう。然し、これら機能に追い付かない筆者は、紙を人生の伴侶として死ぬまで離すことはないだろう。

2019年10月
  随想55 恋文

 その昔を想い出してほしい…
 夏に知り合い、蝉や蛍が消える頃に恋心が芽生え、10月ともなればその気持ちが抑えきれず恋文をしたためる。そんな季節パターンを経験された方、少なくないと思う。何回も何回も書き直してはゴミ箱に、やっと納得する文に出会えて、清書をし ポストに投函。あなたはこうした行動、何十回繰り返しただろうか。
 いや、自分はモテたほうだから恋文は貰う一方で、封書投函はしたことないとおっしゃる方、羨ましい限りだ。でもお付き合いください。今回のテーマは「恋文」だ。

 懸想文(けそうぶみ)、平安時代に恋文はそう呼ばれていた。当時、都では文字が書けない人のため貴族が恋文を代筆する風習があった。やがて「懸想文売り」が都を中心に登場する。時代が下っても同じ事象があった。
 場所は、再開発地区の「SHIBUYA109」の近くで文化通りを少し歩いた辺りだ。まさに現在、若者文化の発信地である。そこに戦後の数年間、駐留米兵と付き合う日本女性のために、英語のラブレターを代筆する店が並んでいた。この辺りを「恋文横丁」と称していたが、跡地には「恋文横丁 此処にありき」と小さな標柱が建っている。1970年代にも渋谷パルコには「恋文の代筆します」と看板を掲げた代筆屋が存在していた。
 その昔は、大げさで抽象的な美辞麗句で飾られ気恥ずかしくなるほどの正直な恋文は、今は影を潜めている。今ではメールやツイッター、LINEなどと時代とともに変り、短文、擬音などの多様性を持ったものが多くなってきていると仄聞する。好きな相手には自分の思いを伝えたいのは、古今東西、永遠に変わらぬ精神構造だろう。

 さて、あなたの若いころは どんな恋文をしたためたのだろうか。 ここで恋文の事例を掲げてみよう。先ずは蜻蛉日記から、藤原兼家の歌だが

「音にのみ 聞けば悲しな ほととぎす こと語らはむと 思う心あり」
(ホトトギスの声を聞くように、貴方の噂ばかりを聞くのは切ないよ。直接お会いして話がしたいものだ)

これに対して、恋人である 道綱母はこう応えている。

「語らはむ 人なき里に ほととぎす かひなかるべき 声な古しそ」
 (お話する相手になるような人はここにはいません。おっしゃっても無駄ですから、ホトトギスさん泣くのは おやめなさい)

 と返しているが、この二人、後に結ばれている。

 大正時代、芥川龍之介は大正5年に、後に妻となる塚本 文に送った恋文は、

「僕には文ちゃん自身の口から飾り気のない返事を聞きたいと思ってゐます。繰返して書きますが、理由は一つしかありません。僕は文ちゃんが好きです。それだけで良ければ来てください。」

 これが文豪の口説きのラブレターだ。

 この数年後、歌人の柳原白蓮35歳の時、年下の恋人宛に、

 「こんな怖ろしい女もういや、いやですか。いやならいやと早く仰(おっしゃ)い。」

 伯爵の子として産まれたが、数奇の運命をたどった白蓮の恋文らしい。

 筆者もつらい時期を経つつも少なくない封書をしたため出状した。
 そのおかげで文章を著わすことが苦にならなくなった。どこで何が幸いするか分からないものだ。
 「人間万事塞翁が馬」といったところだろうか。

2019年9月
  随想54 徳川家康  

 9月15日、家康にとっては忘れられない日であろう。天下分け目の関ヶ原で大勝したその日だ。時は1600年、年号では慶長5年だ。
 右の浮世絵は、一猛斎芳虎の「道外武者御代の若餅」(国立国会図書館所蔵)。 だが、餅をつく人、手水で返す人、着物の柄を見れば、前列右側の人物は木瓜の紋、左側は桔梗紋、お分かりですよね、織田信長と明智光秀だ。左奥はサル顔の人物が餅をこねている、これは当然秀吉だ。
 右奥でこれらを見物し餅を食しているのが、当然家康となる。国をまとめ上げる皆の労苦を家康が享受した、分りやすい絵だ。落首には、こうある。
 「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしまま食うは徳川」

 その天下餅を江戸城でゆっくり「食し」、さぞ美味しかったであろう。その彼の居城の変遷は岡崎城、浜松城、駿府城、そして江戸城と重ねている。その江戸幕府が成立したのは1603年であり、同年に征夷将軍となっている。2年後には息子の秀忠にそれを譲っている。そして1614年、ご存知の…
 豊臣秀頼が建立した京都・方広寺の釣り鐘の銘文に「国家安康」、「君臣豊楽」とあるのを「家康の名を引き裂いて呪詛するもの」と言いがかりをつけて 大阪冬の陣を起こした。そして大阪城は堀を埋められ裸城になり翌年1615年に落城。
 その時 既に家康は73歳、翌年鯛のてんぷらにあたっての死亡が定説だが、塩分過多での「胃がん」が死因ではとの説もある。何れにしても、当時にしては長生きだったが、「てんぷら」説とすれば、生薬に詳しい家康にしてみれば、なんともあっけない死因だった。

 身長約160cmと 当時では恵まれた身長だったその彼は、母とは2歳で生き別れ、幼名竹千代から元信、元康、家康と出世魚のように名前の変遷があった。
 元服は15歳、最初の正室は築山殿だが生涯の側室は20名を超えると言われている。その築山殿は通説では家康の命で殺害されたとあるが、別の説では、今川系の女であると疎まれ、追い出され、伊勢・京都清水寺・越前朝倉家と流転、再婚、離婚を繰り返した、とある。最後は家康との子である信康に呼び返されたそうだが、それにしても数奇の運命をたどった人だ。

 山岡荘八ら家康を題材にした執筆は多くみられ、それらを通じて各位に於かれては、天下を奪取した家康像を持っておられることだろう。もし あなたが家康だったら、その人生、幸せだと感じるだろうか。

2019年8月
  随想53 擬態  

 蝶が舞うシーズンとなったこの8月、今月は蝶に関連する「擬態」をテーマとしたい。
ご存知の通り、天敵などからの攻撃をかわすため、周囲の動物や事物に似た現象になることを「擬態」と呼んでいる。例えば小枝に似た尺取虫やナナフシ、木の葉に似せたコノハチョウなど昆虫類がそうだ。一方、逆に攻撃し易くなるための擬態もある。蟻に似せたクモや花びらに似せたカマキリなどがそうだ。 擬態と言えば皆さんが思い出すのは 周りの色に合わせた、所謂保護色となるカメレオンではなかろうか…。そのカメレオンはギリシャ語で「小さなライオン」を意味するが、今回のテーマは「擬態界の女王」ともいわれるコノハチョウに焦点を当ててみたい。

 蝶は鳥に見つかると食べられることが多い。故に見つからなければ多くの子孫を残せる。そのため蝶は何百世代もかけて見つかりにくい模様へ進化してきた。それも飛んでいる間は動きが素早いので、鳥に襲われにくいが止まるとやられる。枝などに止まる時は羽を閉じると羽の裏側が外側に向く、その裏側は枯れ葉そっくりなのがコノハチョウだ。まさにその変容は擬態だ。
 コノハチョウの存在を始めて報告したのはダーウィンと同時代を生きた英国のウォレンスで、マレーシアとインドネシアで見つけた。時代は1855年前後だ。ダーウィンも彼の著書「人間の進化と性淘汰」の中で、「この蝶が茂みで休んでいるときには、まるで魔法のように姿が見えなくなってしまう」と著わしている。羽を広げたときの鮮やかな青に、黄色の筋が入る派手な色合いと裏側の枯れ葉模様とのあまりのギャップにダーウィンならずとも、その不思議さに驚く。
 このコノハチョウはコノハチョウ族の範疇だ。7000万年程前にタテハナチョウ族とそうでない族に分かれ、その後、そうでない族がタテハモドキ族とコノハチョウ族に分かれた。後者になるにしたがって、羽の裏側の擬態に関しては進化している。そうした中、コノハチョウ族の中でもコノハチョウはあまりにも進化しすぎたのではなかろうかと筆者は感じている。

 この進化の度合いを解明しつつあるのは数学だ。模様の基本要素を数値化し、「ベイズ統計モデリング」と言われる、感や経験を深く採り入れた統計手法が用いられている。このベイズ統計手法はビッグデータの解析に向いていると、昨今では 広く使われるようになってきた。
 小生も情けないことだが、恐妻の小言を聞くときは壁の色と一緒になりたいし、若い時期、上司の叱責時には机の上にある鉛筆になりたかった。そういえば、漫画ドラえもんに出てくる魔法の扉をくぐってもよかったのだと思いを馳せる。
 何故、人間は擬態を活用できないのだろうか。もしかしたら、これからの人間の進化の過程で、そう何百世代のその先では‥…

2019年7月
  随想52 インド婚礼事情 

 インドの結婚式、中堅層クラスの人達はオーバーな言い方をすれば全財産をはたいて結婚式費用に充てるとのこと。これら費用が社会に回って経済の活性化につながっているのかもしれないが、当事者は結婚後には厳しい生活を強いられることになる。とにかく派手だ。
  筆者が数年前インドの地方に訪ねた折、身分不相応なホテルに宿泊したことがあった。欧米の超一流ホテル並みの所だが、当日、4分の3は貸し切りだった。欧米人などが多くいたがそれらの人々は招待客、夕方少し離れたグラウンドが騒々しい。何があるのか、ホテルの人に尋ねたら結婚式の余興で、象のサッカーゲームが開催されているとの由。世界各国からの招待客がそれを楽しんでいるとのことで驚いた記憶がある。

 インドでは婚礼はヒンズー教の関連から11月~翌2月に多い。年間では、1千万組が式を挙げ、ビジネスとしての挙式関連の市場規模は約5兆円と言われている。因みに、日本は年間約30万組、規模は1兆5千億円だ。そのインドでは低所得者が大半を占める中、富裕層は3,000万円以上をかけるのは当たり前で、期間は家族、会社関連、友人などなどへのお披露目のイベントが1週間も続き、招待客は1,000人を超えるケースが多いそうだ。昨今は家族ら100~200人を招いて、海外で式を挙げるケースも多くなってきたとのことだ。その対象先はタイやインドネシアが定番だ。
 式を国内で挙げた人は新婚旅行に数週間をかけて、欧州やハワイがこれまた定番だが昨今はカリブ海のトリニダードトバゴが人気のスポットとなっている。その費用は500万円前後だというから驚きだ。また5年ほど前から結婚式専門チャンネルの放映が開始されていると聞いて、結婚式関連だけで採算がとれていることにびっくりだ。なるほど高額な結婚式費用をかけるに当たっては、最新情報を消費者としては必要としているだろうし、宝飾品や高級ブランなどのスポンサーは効果の高いCMが打てることから成り立つのであろう。
 こうした状況下、日本の婚礼産業は中国や台湾に事業エリアを広げているが、インドはまだまだだ。然し沖縄県がリゾート結婚式の候補になろうと、インドの婚礼産業の人々を招いて画策している。またパナソニックはインドで結婚式専用のカメラの販売をして好評を得ている。
 然し、そのインドで貧しい州のひとつであるビハール州では結婚披露宴の費用が50万ルピー(約87万円)を超える場合は、州政府の許可制にする旨の法案が提出された。この州では昨年1月、若いエンジニアが拉致され無理やり結婚させられた事件が起きた。背景は持参金が払えない貧しい花嫁の家族の仕業だった。法的には持参金制度は1961年に禁止されているが未だ残っている。持参金、貴金属類、宝石、家電製品、挙句は結婚披露宴費用も…。娘3人いればマハラジャ(藩王)でも破産すると言われる所以だ。花嫁の家族が花婿側に金品を貢ぐのは、紀元前18世紀のハムラビ法典に端を発する「ダウリー」と呼ばれる風習からだ。さて、この風習、如何思われますか。

 日本に生まれ、そして娘を持たない小生は破産を免れたが、娘と一緒に手を組んで銀座辺りを歩きたかった…その夢は叶わなかった。このことが残り少ない人生で、悔いとして残っている。

2019年6月
  随想51 眠らぬ皇帝

 世界帝国を築いた英雄は数えるほどしかいない。その一人は紀元前4世紀に活躍したマケドニア王国のアレクサンドロス大王、異民族を登用し東西融合をすすめた。また紀元前にクレオパトラを愛人にしたローマ帝国のカエサルもいる。そして、紀元482年頃に農家に生まれ皇帝になった「その男」、よく働き「眠らぬ皇帝」英雄として崇め奉られている。
 日本では、奈良県に成立した大和政権が関東や九州まで支配を広げている頃だ。その頃は、豪族たちが争うようになり538年に朝鮮半島から仏教が伝わり、受け入れに積極的だった蘇我氏と神への信仰を守ろうとした物部氏が対立し、587年ご案内の通り物部氏は滅ぼされた。そんな時代だ。

 さて、話を「眠らぬ皇帝」に戻そう。
 ローマ帝国は375年から始まったゲルマン民族の大移動で大混乱を起こし、時の皇帝は国を東西に分けて2人の子に与えた。東ローマ帝国は首都を現在のトルコのイスタンブールである、コンスタンティノープルにおいた。この地はかつて、ビザンティウムと言われたため東ローマ帝国はまたの名をビザンツ帝国とも呼ばれた。彼は「皇帝」を守る兵士として働いていたおじの養子になり、おじの仕事を助け、法律や歴史などを学んだ。
 そのおじさんが凄い。出世して皇帝となり、彼は議員として皇帝を支えた。その彼は、東西に分離前のローマ帝国繁栄を取り戻すことに意欲を燃やした。そのおじの後を継いだ彼こそが、ユスティニアヌス大帝だ。
 西暦532年の丁度今月、つまり6月に東側のササン朝ペルシャと永久平和条約を締結して後顧の憂いをなくし、西側に軍隊を進めることができた。北アフリカのバンダル王国、イタリア半島の東ゴート王国と戦い、征服した。更に西ゴート王国とも戦い、現在のスペイン南部を領土化した。つまり、地中海の沿海部の殆どがユスティニアヌス大帝の息のかかることとなった。この大帝はこの国において、古代からの法律を纏めさせ「ローマ法大全」を完成させ。後の欧州の法律に影響を与えた。

 565年に彼が亡くなる前まで、よく働いたことから「眠らぬ皇帝」として評価されることに至った。よく働く要因になったのは彼の妻テオドラに起因する。
 彼はその彼女と結婚する前、一悶着があった。彼女は大帝との結婚する前は踊り子だった、当時、議員と踊り子の結婚は許されておらず、二人は悩んだ。そこで彼はおじに頼んで法律を変え、結婚することができた。
 その後、彼が皇帝の時首都コンスタンティノープルで市民による反乱、「ニカの反乱」が起きた。暴れた市民が宮殿まで押し寄せ、彼は怖くなって逃げようとした。その折、テオドラが叫んだ「逃げ延びてどうするおつもりですか、命がけで反乱に立ち向かってこそ、国の指導者でしょう!!」。彼は我に返り、鎮めることができた。それ以来、働きに働いた彼だった。(この部分、「講釈師見てきたような嘘をつき」の気分で記しています!)

 何処の地でも、いつの時代にでも、また誰にでも パートナーに励まされる場面があるのですね。小生もその一人、度重ねてあることから パートナーには頭の上がらない日々が続いています。 さて、貴方は如何ですか?

2019年5月
  随想50 大黒屋光太夫

 今から240年ほど前の1782年12月、今の三重県鈴鹿市の白子港から一艘の回船が藩米を江戸に輸送するため出港した。船名は神昌丸、船頭は光太夫、乗員は17人。然し冬の海は荒れる、遠州灘で暴風に遭い、光太夫の判断で積み荷を海に投げ捨て、帆柱を切り倒し、船は転覆を免れた。
 さて、その後約7か月にわたる漂流生活を続け、東経180度の線上にあり現在はアメリカ領となっているアリューシャン列島のアムチトカ島に流れ着いた。この間、乗組員は仲間割れもなく漂着したが、これからが大変だった。そこに住んでいた先住民や狩りに来ていたロシア人と仲良くはなったが、生活は不自由を極めた。ロシア語で「これは何」を意味する「エトチョワ」を突き止めると、何かにつけて「エトチョワ」と発し、ロシア語を覚えていった。
 ロシアは17世紀中葉にオホーツク海まで領土を拡大し、18世紀に千島に進出してきた。また18世紀初頭にはピョト―ル大帝の命により首都ペテルブルグに日本語学校が設けられている。その教師は漂流民・伝兵衛なる男が務めていた。目的は来たる日本との交渉時の要員育成だった。
 話は光太夫に戻して、漂着してから4年後にカムチャッカ半島に移りこの半島に居る時には探検家レセップスとも会っていたとの説もある。1791年ペテルブルグで女帝エカテリーナ2世に謁見している。
 ここまで来るにはバイカル湖に近いイルクーツクで、博物学者のスウェーデン人のキリル・ラクスマンとの出会いがあったことからペテルブルグで謁見が可能となった。キリルはエカテリーナ2世との知己があったからだ。彼女は11年間の光太夫のロシア生活にピリオドを打つ許可を出し、併せて日本との外交関係を結ぶ目的で光太夫の帰国を許した。この時、彼女は光太夫にタバコ入れ、金メダル、金時計、チェルボネツ金貨150枚を下賜した。

 光太夫を乗せた使節団を含めた総勢42人のトップは、キリルの息子のアダム・ラスクマンでオホーツクの港から36日で根室に着いた。帰国できた数は光太夫含めて3人、しかし1人は根室で亡くなった。一行は7か月間留め置かれたのち93年7月に函館への入港が許可されたが交渉はこの時点では不調に終わった。
 その後、光太夫ら2人は江戸に護送され現在の小石川植物園である御薬園内の屋敷を与えられロシア事情の幕府側の聴取に応じていた。聴取の内容は桂川甫周が北槎聞略(ほくさぶんりゃく)としてまとめ、幕府にあげられた。時の将軍、徳川家斉にも拝謁し、旗本格の身分で召し抱えられていた。因みにここには小石川養生所があった。
 一方、故郷へは56歳の時に一時帰郷しているが、彼の妻は再婚していた。これは当然あり得ることでその地には、彼は亡くなったものとして彼らの供養碑が建立され、現在でも三重県鈴鹿市の海岸近くにある。そして彼は77歳の生涯を江戸で迎えた。この波乱万丈の男の物語は1968年に井上靖が「おろしや国酔薄譚」で、また吉村昭が2003年に「大黒屋光太夫」で書き下ろしている。

 ペテルブルグ、現在のサンクトペテルブルグには日本から約半日強でのフライトだ。当時どんな気持ちで犬ゾリ、そして馬などでシベリアやウラル山脈を越えたのだろうか。日本に帰りたい一心は分かるが…

2019年4月
  随想49 桜

 この随想、毎月著わし始めて50回目を迎えた。自分ながらよく続いたと思う。

 さて、今は丁度花見のシーズン、日本人の精神基盤である「無常観」につながる「サクラ」について節目でもあるのでテーマとして採り上げてみよう。
 その昔、入学式には桜が必然だった。一方、風に吹かれ、雨に打たれ、その後はらはらと散る桜に我々はもののあわれを感じる。この雅、つまり見事に散る花の潔さに男性的イメージ、武士道の理念が重なるようにも思える。我々は同期だが、戦時に南海の藻屑と消えた人たちを謳いあげた「同期の桜」、我々の脳裏には鶴田浩二さんが耳に手を当てながら歌う姿が残っている。イントロで語る言葉に胸が張り裂けるような思いを持ったのは、筆者一人だけではないだろう。

 さて、桜の見ごろは3月下旬で関東以西、4月上旬に関東北部、中旬に東北、下旬に北海道とのことだが、現在のような花見が始まったのは江戸時代だ。大阪の豪商が商売相手や歌人・文人などを閑静な別荘に招いて、料亭から料理を取り寄せてもてなしたとのことだ。
 一方、江戸では政治や経済に対するガス抜きの狙いも含めて向島や上野、飛鳥山などに植樹して町民たちの憩いの場を幕府が提供した。この江戸時代の桜といえば、遠山の金さんを思い浮かべる。時代劇を観ても、片肌を脱ぎ「この桜吹雪を見忘れたか」と啖呵を切る場面、子供心で拍手を送ったものだ。
 現代になり、桜の季節になると媒体は奈良時代は花見の主役は梅だったと伝え、そして「万葉集」での詠まれた数は桜の3倍だと伝えてくれる。更には中国渡来の梅は貴族に文化、教養の象徴として位置付けられていたとも教えてくれる。
 観桜の歴史は、鎌倉・室町時代には武家の間で「観桜」の宴が始まり、「徒然草」では吉田兼好がマナーの悪さを指摘している。その後、吉野山で花見を催したのは豊臣秀吉で、京の醍醐寺での花見はあまりにも有名だ。江戸時代に入り、先にも記す飛鳥山での桜は8代将軍吉宗が関係した。

 振り返って、サクラのサの字は農事をつかさどる神、クラは物を収める場所の意味から、サクラは「農耕の神が宿る木」の意味だ。このサクラは農作業を何時から始めたらよいかを教えてくれる。例えば、つぼみが膨らむと田を鋤く準備をし、満開になれば山菜が出る時期だと教えてくれる。
 一方、詠まれた歌も多々ある。在原業平は、「世の中にたえて桜のなかりせれば 春の心はのどけからまし」と、また73歳で生涯を閉じた西行法師は「願わくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」と詠み、山口県生まれの種田山頭火は「酔ひざめの 花がこぼれる こぼれる」と自由律の俳句を残している。
 桜の散りきったころに「花供養」として京都・嵯峨などには、真っ白な桜餅を3日間作って提供する和菓子店がある。なんとも風情ではなかろうか。

 扨て、さて、桜を始めとした花や木の名を冠した苗字は多数ある。櫻井、桃田、藤沢、梅田、椿本など、一方ユダヤ人の姓にも美的なのが多い。ビルンバウム(なしの木)、ブルーメンガルテン(花園)、アプフェルバウム(リンゴの木)、ローゼンタール(バラの谷)など、世界には植物に由来した苗字は多いですね。
 話を戻して、文芸の才をお持ちの貴方はどんな桜の歌をこの世に残すのだろうか。筆者は根っからその才がないことから、「桜餅」を食してその季節を終えたい。

2019年3月
  随想48 女性天皇

 来月1日、新元号が公表される。そしてその翌月1日、つまり5月1日には改元され新天皇の誕生となる。そしてその先ではマスコミなどが女性天皇に関して話題として採り上げることだろう。今回はその女性天皇の最初であった「推古天皇」について著わしてみよう。

 ▲ 推古天皇像(土佐光芳画)

 今から1465年程前の554年に「彼女」は生まれ、敏達天皇の即位1年前の571年に17歳で嫁いだ。その天皇が死去して、姉弟の用明天皇そして母親違いの崇峻天皇を経て推古天皇が誕生した。史料には容姿端麗とあるが、他にも容姿端麗と記されているのは元正天皇ぐらいだろう。彼女の生涯は子供には先立たれたが、この時代として超長生きの満年齢で74歳、丁度今の我々世代まで生きておられた。

 この推古朝と言えば、用明天皇の息子、推古天皇の甥にあたる厩戸皇子、つまり聖徳太子と叔父に当たる蘇我馬子が脚光を浴びているが、日本書紀には推古天皇がこの二人の上にいたことを記すものがあり、40歳を前にして即位した彼女は彼らと二人三脚で歩んだものと推察できる。その治世は36年の長きにわたっている。

 さて、その女性天皇即位の背景は如何なものだったのだろうか。時代を想えばそのヒントがある。推古天皇の先代である崇峻天皇が暗殺された政治的危機があったことに加え、35歳以上を王位就任の適齢期とする雰囲気があったことから、群臣は推古天皇の父である欽明天皇の孫にあたる聖徳太子をはじめとする孫達3名からは選ばなかったのだろう。

 加えて、推古天皇の母である堅塩媛(きたしひめ)は蘇我稲目の娘だ。当時権勢を振るっていた蘇我一族の強い後押しがあったことは、歴史に造詣の無い筆者でも想像ができる。それが証拠と思われるのは、推古天皇が即位したのは豊浦宮、遷都した先は小墾田宮でいずれも現在の明日香村だが、蘇我稲目の邸宅があった場所だ。
 更に古事記に登場する最高神・天照大御神は女性であり、3世紀に登場する邪馬台国の王・卑弥呼も女性ゆえ、女性天皇を受け入れる環境が自然にあったかもしれない。

 推古天皇が即位して8年後、遣隋使が600年に海を渡っている。その隋には「我が国の王は夜に政をし、夜が明けて日が昇ると弟に政治を任せる」と説明をしている。意味は卑弥呼の時代から存在した「女性が神の声を夜に聞き、男性が昼に実務を執り行う」との意味だ。返ってきた隋のコメントは「王は朝から政を行うべき」との、ことだったそうだ。これらの語句、「講釈師見てきたごとくの嘘を言う」と筆者は責められそうだが、識者の言葉を多少引用しているので責任は逃れられそうだ…。
 尚、隋の使い・裴世清(はいせいせい)は聖徳太子とは会見したが推古天皇には会っていないようだ。それが故か、中国の歴史書「隋書倭国伝」には倭国王は男性と記されている。

 さて我が家の事で恐縮だが、小生が在職時までは「天皇」として君臨しておりましたが、退職日に退位を迫られ、見事に「女性天皇」の誕生となりました。今の私は?

──ハイ、宮内庁事務官と皇宮警察官を仰せつかっています──

2019年2月
  随想47 楽聖

 外では雪が深々と降る。暖炉の前でロッキングチェアーに身を沈めて、日頃溜めおいた本を読むか、静かに瞑想状態で音楽を聴くか、こんなシーンが目に浮かぶ季節だ。例えばその音楽、あなたのお好みのジャンルは何ですか。
 カラオケ派でしたら演歌でしょうか、それとも降る雪に思いを寄せて我々世代では、イタリア生まれでベルギー人のアダモの「雪は降る」でしょうか。或いはオーストリアのスキー選手でもあった、トニー・ザイラーの「白銀は招くよ」などの洋楽の類を口ずさむのだろうか。
 一方、瞑想状態で聴くとなれば、クラッシクとなるのでしょう。じっくり聞くとなれば、癒し効果が期待できるスペインのホアキン・ロドリーゴによるアランフェス協奏曲第2楽章、街中でもよく流れている楽曲となるのでしょうか。更に奥行きのあるクラッシクとなればモーツァルトやベートーヴェンなどを挙げる人も多いのでは。

 そのベートーヴェン、ご案内の通り先天性ではないが次第に聞こえなくなる難聴で苦しんだ。この苦しみを、幼馴染で故郷ドイツのボンに住む医師のヴェーゲラーに打ち明けていた。ヴェーゲラーはベートーヴェンに一時の帰郷を勧めているが、音楽の都ウィーンで活躍中の彼には聞き入れる余裕がなかったようだ。
 ウィーンでのベートーヴェンは、画像を見てもお分かりの通り気難しい人間として知られていたがその背景は、難聴からくるものだった。彼はヴェーゲラーにこんな手紙を認めている。
 ベートーヴェン曰く、「自分は音楽家の看板を提げている、その私が『すみません、お話になることが良く聞こえないのですが…』と聞き返せるだろうか? それを避けるために気難しい男を演じている。この苦労、君に分かるだろうか……!
と苦悩を綴っている。
 二人の関係は手紙のやり取りだけだったが、時が過ぎベートーヴェンが死の淵にあったとき ヴェーゲラーから届いたのは、故郷のワインだった。
 それを聞いたベートーヴェンは「遅すぎる!」と言って、息を引き取ったという逸話が残っている。

 話は続く。ヴェーゲラーの子孫は現在、ドイツで高品質のワイナリーを経営している。その名称は「ヴェーゲラー醸造所、最近売り出したブランドが「ベートーヴェンのベストフレンド」と称するワインだ。 昨今、我が息子たちから難聴ではと疑われている小生にとって、難聴状態で「英雄」や「月光」、「運命」などの作曲に当たったベートーヴェンをリスペクトしている。
そうだ、暖炉はないから、ガス・ストーブの前でカテリーナ・ヴァレンティの「情熱の花」やザ・ヴィーナスの「キッスは目にして」の原曲であるベートーヴェンの「エリーゼのために」を、エリーゼではなく古女房と一緒に鑑賞することにしよう。

2019年1月
  随想46 人間と動植物

 新年を迎えた。
 新たにこの地球号が、どのようにあったら良いのだろうか。1年を通じて、そんな時間をもつのはこの正月もしくは1月だろう。この地球号に乗船する動植物と人間、これからどう共生していくのか、識者に教えを乞いたいものだ。

 さて、人間に文化があるように、動物達にも文化がある。例えばサル、宮崎県の幸島のニホンザルは海の水でイモを洗う文化を継承している。同様に他の動物にも文化継承の事実が窺える。では人間はどうだろうか。
 人間は脳を発展させたことで論理的思考をするようになり、石器や鉄器を考案して、農業や工業を発達させ自然を支配したかのように認識し始めた。1mmにも満たない微生物から長い時間と過程を経て人間が現出してきた。3,000万種を超える多様な生命体が、この丸い地球で息づいている。その中で人間は、脳が発達したことで他の動植物が気づくことのない、死を発見した。それ故、人間は死を恐れ、信仰に走り、宗教が絶大なる力を持つようになった。そして過去2千年の間、宗教間で争いごとの絶えない歴史を持つ。

 一方、その人間は自然界から鉱物資源を採掘し、土の上をコンクリートで固め、川の流れを変え、海には廃棄物を大量に投棄し続けてきた。つまり人間の文化は、自然を支配しようとしているが地球、いや自然を痛める文化でもあった。さらに人間は、結果的に地球上の多くの動植物を口にする。これらの横暴は人間自身を苦しめることになり、その反動を現代人が受け始めている。
 では、人間はどうすればよいのか。もともと人間は、象やライオンの小集団の形成とは異なり、大集団をつくり、多様な言葉を得て生き延びてきた。そして、その中で築いてきた文化を子供へ継承し、幅広い知識や思考を伝承してきた。大集団故、そこに多様性が生まれ文化の一層の発展を見ることになる。

 アフリカから出た新生人は今や70億人超、2050年には100億人超が予見されている。その人間達は我儘だ。昨今は「動植物と共生だ と、自称・進歩派は叫ぶが、実態は収奪の世界を作っている。動物達の肉をほおばり、微量元素の摂取のため大地の恵みである野菜や果物を口にする。いつか地球の滅亡の日まで、人間が口にするものには、変化はないのだろうか。

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