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2020年12月
  随想69 90万種

 寒くなりました。暦では今年最後の月、寒いときには寒い地域の話題がいいですね。
 それでは、北極海に近いところのお話をしましょう。
 場所はノルウェー領スバールバル諸島のスピッツベルゲン島、ここは北極点から約1,300kmだ。近い将来、ここが大きな脚光を浴びる時が来ると筆者は思っている。それは何故か?
 現在、気候変動が考えられないほどの状況で進んでいる。海面水温の温度が変化し、獲れる魚種が従来緯度の低いところの魚へと変化している。こうした状況は、陸上とて同様で、従来収穫できていた作物が育ないことや収量が落ちている現象がみられる。

 では、何をすべきか、当然種子の保存となる。その保存に当たっては「ノアの箱舟」ならぬ、大掛かりな「種子の箱舟」的な貯蔵庫が必要となるだろう。日本では各地にある農業試験所や大学などの教育機関などに小規模に存在する。一方、世界では大規模な施設が存在する。
 その一つが、冒頭に記したスピッツベルゲン島だ。人口約2千人のこの島、最大集落地区で飛行場にも近い場所に2008年2月に開設した種子庫がある。その名は、「スバールバル全地球種子庫」、永久凍土の中にあり、約90万種が保管されている。気候変動や自然災害、また紛争などに備えて、世界の食用植物の種子を半永久的に保管する役目を持っている。
 この地区の10月の外気温は零下6度前後、一方永久凍土は零下7~8度を保つ、その岩盤を水平に約120mくりぬいた施設は地震にも強い。そこに100万種近い種子が世界各地の政府や国際遺伝子バンク、研究機関が保有する種子をバックアップ的に、依頼を受けて保管している。
 種子の保管はプラスチックケースに入れられ、整然と並んでいるが北朝鮮の種子だけは木箱に唯一、収められている。日本からは2014年に初めて、岡山大学のオオムギ研究者から預けられた。その種子は岡山大学が約70年をかけて収集したオオムギ575種類だそうだ。

 この種子庫はノルウェー政府の運営で、整備に約900万ドル(約10億円)をかけたが、勝手にはケースを開けることはない。出し入れできるのは預け入れた国や団体、その正当な後継者だけだ。他国にない独自の品種を財産と考える国は少なくない。食料安全保障が叫ばれる今日、ノルウェーはいち早く意識し、この種子庫を設置した。ここの運営に当たっては、第三者がケースを勝手にのぞき見をしない保証をし、預け入れを促進している。
 しかし課題はある、それは運営資金の確保だ。資金管理を担う国際機関「グローバル作物多様性トラスト(GCDT)」の事務局はドイツに置くが、種子庫の運営費は年間約100万ドル(約1億1千万円)がかかる。保管料は無料、更にGCDTが支援する世界15か所の国際遺伝子バンクの研究費や運営費を加えると年間計2千万ドル(約22億円)超が必要とされている。運営には基金を設立してその運用利益で賄う計画だったが十分ではなく、不足分は民間からの寄付で賄われているが、年々寄付集めは厳しくなっている。
 日本は国内の研究機関が既に世界各地で種子の持ち合いを実施しており、種子庫に頼る必然性はない。がしかし、途上国援助のODAの一環としてGCDTを通じて日本はアフリカの国際稲研究所に2,200万円を拠出している。
 今後、長期的視野に立てば気候や食生活は大きく変化するだろう。つまり作物の多様性は人類共通の財産だろう。そのためには、品種改良を重ね新たな作物を生み出すことに有効なのは種子庫となる。日本もGCDTに拠出を増やすことは必要なのではないだろうか。

 筆者の猫の額程度の土地で、南方系の食物が実をつけた。近い将来、バナナやマンゴーが露地栽培で実を付ければ嬉しいのだが、それはひ孫の時代だろうか。 然しその時点では、温室ガス排出の影響で海面が上昇し、銀座をはじめ都内23区は水面下。筆者が住むこの地域が日本の銀座と変身している……。 そんな夢を見つつ目が覚めた。

2020年11月
  随想68 ゴホン!

 インフルエンザの季節になりましたが、ワクチンは注射されましたか。
 とにかく、冬に向かうと咳が出ますが、その折、龍角散を服用されませんか。
 前回は岩手県がテーマの一部でしたが、今回は隣の県の秋田県と「ゴホン!と言えば龍角散」をテーマに選びました。

 江戸時代後半、秋田を治めたのは佐竹藩。その御典医を務めたのが藤井玄淵。彼が文政年間(1818~1830)に創製した藩薬が「龍角散」だった。名の由来は、初期に生薬の「竜骨」や「鹿角霜」、「竜脳」を処方したことからだ。一方、2代目・玄信は蘭学を学び西洋の生薬を成分に加えている。
 長崎で蘭学を修めた3代目・正亭治は、藩主・佐竹義堯の持病である喘息治療薬へと改良していった。
 時代は明治となり、維新で東京に居を移す藩主に従って、正亭治も付き従った。廃藩置県の1871年、佐竹家は藩薬であった龍角散の市販を許した。桐箱に収めた龍角散は大ヒットだった。
 4代目・得三郎の時代になると、「日本薬局方」の制定に尽力したドイツ人ランガルトから製剤技術を学び、微粉末状の龍角散を1893年に完成させた。加えて、全国紙で新聞広告を打ち、販路を全国に広げ、さらに1921年には台湾や朝鮮への輸出も開始している。

 戦後、テレビの草創期にテレビCMの評価が定まらない中、いち早くテレビCMをスタートさせ、秋田の藩薬が全国ブランドとなった。さらに2000年前後には、高齢者が薬を服用する折に水が肺に入り、肺炎での死亡をなくすためにゼリー状の嚥下補助製品を上市した。その2年後には幼児向けに味付けした同様な製品を市場に送り込んでいる。
 この会社、華々しく事業運営がなされているものとホームページを閲覧したら、売り上げ年間200億円程度、資本金6千万円、従業員は100人超と中小企業の枠を出ていないが、知名度は抜群だ。なお現社長の藤井靖男氏は波乱万丈の人生だったと、これまたネットサーフィンで知った。ご興味のある方は、どうぞ。

 因みに、秋田は近隣の県に比べて納豆の需要が高い食文化がある。この背景は、その昔水戸から移封した佐竹藩が納豆文化を秋田に持ち込んだものだ。同様に周りの県が納豆を嫌う中で、香川県が秋田県同様に納豆文化圏だ。背景は常陸から分家した松平家が香川に移封したことによるものだ。

 …さて、冬になると、のど飴を離せない筆者は龍角散やカンロ、浅田飴などの古き企業の製品を愛用している。その背景は生薬を使用していそうで、無害の感じをイメージしているからだ。
 では、今冬のインフルとコロナの同時並行の来襲に、呉々もご自愛を…。

2020年10月
  随想67 盛岡中学

 文学に親しみたい秋になった。今月は読者やファンを多く持ち、故郷の岩手に根ざした作品が多い、石川啄木と宮沢賢治について触れてみよう。啄木は1886年生まれで1912年に他界。賢治は啄木より生まれが10年遅い1896年、1933年に没した。何れも26歳、37歳と短い命だった。そして二人の共通点は盛岡中学だ。

 啄木は中退して東京へ。漂泊の歌人と知られる啄木は兎に角、転居が多かった。
 東京で病を得て、帰郷。しかし2年後再度上京、その3年後北海道へ。その北海道を舞台にした作品を多く残している。函館、札幌、小樽、釧路を渡り歩いているが、その期間はたった1年だ。しかし筆者の故郷函館での滞在期間は132日、その間に詠み、今でも親しまれている短歌がある。
  函館の青柳町こそ悲しけれ
  友の恋歌
  矢車の花
 を残し、また
  東海の小島の磯の白砂に
  われ泣きぬれて
  蟹とたはむる
 と、函館の大森浜と称するところを詠んでいる。
 北海道に渡った翌年にはまた東京。啄木の魅力は短歌にとどまらない。110年前の大逆事件後、言論の自由が危うくなった時代に強い抗議の筆を振るった「時代閉塞の現状」を著わしている。貧窮の中、非凡な才能と自負心で生き抜いた啄木は、不遇のまま肺結核で死去。

 逆に裕福な家庭に生まれた賢治は、父親は古着や質屋を経営していた。しかし、貧しい人に利息を付けて貸し出す事業に疑念を抱き、理想郷を追い求めつつ22歳の頃初めて童話を書いた。生涯書いた童話・寓話は100余り、詩や文章は1,000編を優に超えている。しかし生前は無名に近かったこともあり、もらった原稿料はたった1編だと言う。しかし今や、彼の作品は20カ国語超に翻訳され愛読されている。
 「風の又三郎」では地球を旅する大循環の風、「銀河鉄道の夜」は宇宙空間を舞台に生死の境も超えてしまう壮大なストリーの展開と思えば、「やまなし」「よだかの星」などでは小さな生命、弱者への優しさが描かれ、まさに他者へのまなざしで貫かれている。
 そんな彼は、妹が結核になり24歳で見舞いがてら上京し1年ほど住むが妹が芳しい状況ではないことから、2人で帰郷するも妹は亡くなる。失意の中、当時日本の領土でもあった樺太に1人で旅する。旅した先ではロシアの小説家チェホフも訪ねた湖にも賢治は立ち寄っている。その後、東京で文人墨客と交友を持ち、クラシックやセザンヌの絵画を愛しつつも、妹と同様に結核を発症、病床で著わしたのが「雨にもマケズ」だ。

 雨には負けないが、コロナに負けそうな筆者。友に会えず、家族にも会えず、フラストレーションは溜まり、併せて雀の涙ほどの小遣いも貯まる一方だ。
 さてコロナ後には、貯まったお金で、群馬県安中にある「舌切り雀のお宿」でも行くとするか! さてさて、足りるかどうかが心配だが…。

2020年9月
  随想66 酒

 酒がうまい季節となった初秋、そして長い巣籠り期間とで酒量が増えたという人、手を上げてください。
 「ハァ~ィ」…見まわすと沢山いますね!

 さ~て人間、太古の昔から酒を飲んでいたようですョ。
 何故、酒を飲むのだろうか。答えは幾つもあろう、酒が好きだから、リラックスしたいから、周りの人と親しくなれるから、はたまた悲しい時や辛いときに気持ちを癒してくれるから…、理由は沢山あろう。では今回はその酒の周辺を考えて見ましょう。誰ですか、「そんなことはどうでもいいじゃないか…。酒がまずくなるから止めてくれ」と、語る御仁は…。
 そこを何とか、短時間ですからお付き合い下さい…。

 酒の歴史は古い。紀元前4000年以上前、メソポタミアで麦の粥に酵母が入り、自然発酵したものがビールの起源と言われ、「液体のパン」とも称されるそれを飲んでいた。紀元前3000年ごろにシュメール人が粘土板にビールの作り方を残している。
 では日本は、となるが、紀元前1世紀に中国の思想書「論衡」に、日本に酒が存在することが記されている。3世紀に纏められた「魏志倭人伝」にも、日本に酒が存在することが記述されている。何れにしても紀元前後には確かに酒は存在したのだろう。
 さて、次に酒に深くかかわる肝臓の話に移ろう。ご存知の通り、薬剤や添加物などと同様にアルコールを無害なものへと処理するのが肝臓の有力なるお仕事。つまり解毒だが、その処理量にはおのずと限界がある。酒を飲みすぎると、アルコールの解毒が優先され、その分糖質や脂質がうまく代謝されないことになる。つまり滞ったこれらの糖質や脂質は中性脂肪となり、肝臓やその周りの内臓に付着して脂肪肝や内臓脂肪症候群となっていく。
 肝臓全体の30%以上に脂肪が沈着した状態になれば脂肪肝というが、その先は肝硬変や肝がんへと重症化への道に繋がっている。勿論、過食や運動不足などの要因もあるにせよ、自覚症状に乏しいこともあることから、お気をつけあそばせ…。

 一方、世界的に猛威を振るっている新型コロナウィルス、日本に比べて欧米の感染スピードは極めて速い。その要因・背景は幾つかあると言われているが、DNAつまりゲノム(全遺伝情報)が影響しているとの説があるが、酒への強弱もゲノムの違いがあることが判明している。
 ある特定酵素が酒の成分であるエタノールや酒を飲む折、体内にできる有害物質のアセトアルデヒドを分解する働きが弱いと有害物質が減らず、所謂「酒に弱い体質」となる。日本人は長い期間をかけて、この酵素が働きにくくなり、欧米人に比べて酒の弱い今日の日本人へと「進化」したのだと、ゲノム分析で分かっている。では、何故進化したのか?
 昔々、稲作を始めた時代の日本人は、水田にいる寄生虫やアメーバに悩まされたらしい。酒に弱いと他の有害物質を分解するキャパシティーが増えることになる。つまり、そうした体の方が寄生虫などの害毒を外に出すのに好都合だったのだろう。つまり環境に合わせた「進化」だったのだ。
 こうしたゲノムの情報解析では、日本人は痩せやすい傾向がある人は関節リウマチや統合失調症になりやすく、一方、太りやすい人は心筋梗塞や虚血性脳卒中になりやすいことが判明している。
 何れにしても、お酒はほどほどに健康を考えて…

 この時期、素敵なお姉さんやホストがいる処から「紅葉何とか祭り」とかと称して、お誘いがあるかと思いますが、抑えて、控えて、断って…
 あなたのお歳では、その場所へ行けば「コロ」と「ナ」くなりますよ…  否、最早先方が、もうあなたを相手にしてくれないかも…。

2020年8月
  随想65 おなら

 いきなり下賤な話で恐縮だ。貴方はおならを1日何回しますか。
 健康な人は一般的に1日8~20回、量では200~1,500ミリリットルだ。
 その正体は、7~9割は食事の時に飲み込んだりして体内に入った空気。加えて、細菌により分解してできたガスが腸内で発生し、最後は腸の働きで押し出されて肛門から出る。なお、空気の殆どはゲップとして体外に出るが出なかったものが腸に運ばれ、ガスとしてたまっていく。
 出るのは生理現象だから非難はできないが、臭いのは周りが迷惑する。さて、何故臭いのか・・・。それは、肉や揚げ物など脂っこくてたんぱく質を多く含むモノを食べると臭くなる傾向がある。腸内にはウエルシュ菌などの「悪玉菌」がいて、脂質やたんぱく質をエサにして増える。その悪玉菌が増えると腐敗が進み、アンモニアや香料などになるスカトールの匂いの元となるガスが出る。
 一方、乳業メーカーなどが宣伝している乳酸菌やビフィズス菌など「善玉菌」は、食べ物を腐らせるのではなく発酵させることで、匂いがない炭酸ガスやメタンガスが出てくる。イモや豆など植物繊維を多く含むものを食べると、その食物繊維は殆ど分解されずに大腸にたどり着く。それにより、腸内細菌のエサが増え活発に働くようになり、おならがよく出ることになる。
 一方、便秘や下痢などのお腹の調子が悪い時にもガスがいっぱい作られる。下痢の時、お腹がゴロゴロと音が鳴るのは腸にガスがたまっていることを示している。

 さて、おならは我慢すべきか? 特に紳士・淑女は悩むだろう。
 悩むことはありません・・・。思いっきり出しなさい、地響きがするほどのものを・・・。おならを我慢すると健康に悪い、腸の内側には栄養素などを吸収する役割がある。我慢してガスをためすぎると、栄養素のように吸収される。おならの臭い成分が血液に溶け込んで体を巡るため、体臭や口臭、肌荒れの原因になることがありますぞ!
 ただ、おならは我慢しようと思わなくてもたまることがある。ご存知の通り、ぜん動運動という腸が伸びたり縮んだりした動きで肛門まで運ばれる。一方、体を締め付ける洋服を着たりすると腸が圧迫され、おならを運べなくなる。加えて、長時間座っていたりしても腸は動きづらくなるのでおならがたまる。昨今のコロナで巣籠り状態であればなおさら、貴方のお腹の中にはたまっていますよ・・・。

 解決策は、当然適度な運動です。更にお腹の辺りを手で伸ばしたり、大腸をなぞるようにお腹をやさしく押したりして、おならをだすことができます。それでは淑女に一言、おならをだす折のコツを伝授しよう。 そ~っと丁寧に吹くと音は小さくなります。つまり肛門の締め具合で音の高さは変わります。その後、目立たない程度に周りに親指を立てながらウィンクを頻回に行えば「臭い!」と騒ぐ者はいないでしょう。もし居たとしても、勇気ある人がそれは僕です、と身代わりになってくれる人がいるでしょう。言い忘れました、激しいウィンクで、つけまつ毛を落とさないように・・・。なお、音と匂いには相関性はないようですョ・・・。

 では、さんざんご託を並べたお前はどうだと問われそうだが…
 ハィ! 小生は時と場所を選ばず無制限に「外出」頂くよう、水戸の黄門様には鍵をかけておりません。先だっても繁華街で美人とすれ違った折、影も形も持たない彼はいつもの通り許可なく出立されました。お陰様で彼女は振り返ってくれて、小生は片手を上げながら二人の距離がひらいていきました。傍に居た女房殿からは肘鉄を食らいましたが、その事由が彼女を振り返ったからなのか、多少大きめのおならだったせいなのか、未だ分からずじまいです。

2020年7月
  随想64 銀山

 先ごろ県を跨いでの往来が解除されたが、まだまだ旅は憚られるのが世間のムードだ。さすれば、当月も目を瞑っての「旅」にご案内しよう。
 かつての「銀山」へ。旅そして銀山、とくれば皆さんは山形県の銀山温泉を思い浮かべるだろう。冬の雪景色のなかでは更に情緒が増し、タイムスリップ感は最高域に達する。筆者が若かりし頃、東北担当の時期があり出張途中に抜け出し宿泊をした経験がある。その後、数年前にも立ち寄ったが半世紀弱前と変わらずの面影だった。しかし今回の話題は山形ではなく、関西に飛んで頂こう。

 新幹線で大阪、新神戸を過ぎて姫路で降りましょう。姫路城を見学したい気持ちは分かりますが、帰路にしていただきJR播但線に乗り換えます。時間がありませんので急いでください。乗ること約1時間半、着きましたョ、山間の街、生野駅に。ここは兵庫県朝来(あさご)市生野町、銀鉱山の町として栄えたところだ。 この銀鉱脈の発見は平安初期(807年)で、昭和48年(1973年)の閉山まで実に1150年ほどの採掘の歴史がある。経済的には織田、豊臣、徳川の財政基盤を支え、明治以降は日本の近代化をも牽引した。いまでも古い街並みを残している。
 1832年、時代は江戸だが山師が建てた宿で鉱山関連施設として当時からの現存する歴史的建屋がある。また赤みがかった瓦や淡い黄褐色の土塀など生野の町家の伝統を今に伝えている。しかし、かつては追い剥ぎが横行し死と隣り合わせの土地柄だったこともあり「死野」と呼ばれていたが、縁起が悪いと、第15代応神天皇の命で「生野」に改名した。
 銀鉱山は当初、採掘は細々と行われてきたが1542年担馬守護職の山名祐豊が島根県の石見銅山から採掘・精錬技術を導入すると、町は瞬く間に繁栄していった。その面影は、山のふもとに8つの寺が並び立つことで分かる。背景は全国から本格的な採掘に合わせて構内作業者が集まり、それぞれの宗派に基づく寺が、短期間に狭いこの地に次々と創建された。鉱山労働者は過酷な労働により短命であり、彼らを弔う寺が不可欠だったのだろう。

 その生野銀山、江戸幕府の直轄だったが明治維新を経て官営鉱山となり、その官吏や技術者のための官舎が5棟ほどあり、街並みの一部を形成している。その後、明治29年(1896年)に三菱合資会社に払下げとなった。生野で産出された銀の累計は1,723tだそうだが、そのうち950tは江戸時代までに人力で掘り出されたものだ。
 その人力での掘り出し、つまり手掘り坑道は幅70cm、高さ1mと立ち上がる余裕もない暗黒の穴蔵だった。最深部は地下880m、坑道の総延長は約350kmと驚くばかりだ。さて、この生野鉱山を見学しましょう。入場料は1,000円ほどです。毎日13時からは無料のボランティアガイドから1時間ほどをかけて、歴史や採掘技術などの解説を坑道を回りながらお話ししていただける。

 さて、見学が終わったら日本海に向かって約60km先には文人墨客が多く訪れた城崎温泉が待っています。電車で約1時間強のところ、本日は姫路に戻らず、温泉に浸かって1泊していきましょう。急ぐ旅でもないでしょうから…。 この時期、烏賊やサザエ、アワビ、ウニなどはこの地では旬です。舌鼓、間違いないでしょう。翌日は早い出発となります。お酒の量は、ほどほどに…。

2020年6月
  随想63 沈船

 コロナ騒動の余韻をしっかり残すこの月、前月に引き続き海にまつわる話題だ。
 海洋考古学、お聞きであろうかこの分野。数千年以上前から近代までの沈没船を調査し、歴史や文化を探る学問だ。調査にはハイテク、ローテクを駆使して当たるが、技術の進歩によりその手法に変化をもたらしている。そこで昨今の調査の流れと考古学者たちの技にどのような工夫が凝らされているか見てみよう。

 海洋考古学として対象となるのは、沈没船とその積み荷だ。偶然に見つかることもあれば、歴史的書物や言い伝えをベースに特定の船を探すことがある。後者のケースでは、先ずは調査船の正確な位置をGPSで確認し、調査対象の沈没船の目星をつけた海域を何往復もする。その際、音波を発信してその跳ね返りを受信し海底を探るソナーにコンピューターをからませて、海底の精細な3次元画像を作り出す。
 沈没船の場所が分かったら水深数十メートルまでであれば、ダイバーが潜って目視する。海洋考古学としては米国テキサスの大学教授により、1960年に小型潜水艇が用いられた。小型艇はダイビングより長時間潜水できることから便利だと導入されたが、その後は深海調査や海底油田などに普及した水中ロボットが使用されるようになった。例えば、水深数千メートルの水中ロボットからの映像は船上に設けられた指令室の大型デイスプレイに常時映し出され、カメラやアームなどの操作が可能だ。
 実際3800mに沈んだタイタニック号の調査に用いられた「ヘラクレス」は水深4000mまで潜れてカメラやセンサー、物をつかむアーム、ソナーが搭載されていた。
 一般的に沈没船を見つけてからはその状態を正確に計測し記録する。その後、船上から送られた空気で土砂を吸い上げる「エアーリフト」や船上のポンプを使って送り出される水流を用いた「浚渫機」で泥や砂を除きながら発掘が進められる。重い遺物は空気を入れて浮かべる気球にぶら下げて引き上げる。これまではハイテク作業の部類だが、以後は修復、複製作りとなるがこの分野の作業は基本的に人手が頼りでまさにローテクを駆使することとなる。

 水中の遺物は、本来の姿のまま見つかることは年を経るごとに難しい環境となる。例えば、炭酸カルシュウムなどのミネラルが遺物と固まって岩に見えるケースが多い。こうした「岩」に学者の審美眼が問われるが、この塊を工具で注意深く削ると種々価値あるものが出てくる。
 塊の中で鉄が朽ちて空洞になっていても、空洞の内側は消えた遺物の外形を残すことが多く、樹脂を流し込んで取り出せば「タイ焼き」をつくるように複製が出来上がる。引き上げた遺物をすぐに乾かすと海水中の塩やミネラルが浸透していることから表面で結晶化して遺物を痛めることになる。その為引き上げた遺物は早い時期に脱塩処理が欠かせない。鉄には水酸化ナトリウム、銅なら炭酸ナトリウム、木製品ならポリエチレングリコールの水溶液をつくり、浸す、洗い流すなどの処理をすることになる。故もあり、分析や展示ができるまで数年もかかることがある。

 歴史的に価値ある沈船は地中海に、そしてバミューダ諸島沖などに多々ある。筆者が「学生時代に戻れるなら…」専攻を変えて、夢があり冒険心がくすぐられるこの分野に飛び込みたいと思うが…。否、年齢を考えれば「生まれ変わった時は…」の方が、時宜にあった適切な語句なのだろう。

2020年5月
  随想62 潜りの帝王

 未だ続くコロナウィルス騒動、外出はままならない。そこで前月は水族館に思いを巡らしていただいた。では今月も同様に先月の延長線だが、狭い囲われた水族館ではなく、大海原に出てみましょう。それでは東京都ではあるが、南の果ての小笠原諸島まで足を運んでいただこう。この辺りではマッコウクジラを数多く観ることができる。

 このクジラ、他のクジラと違うのは圧倒的に頭でっかちのプロポーションだ。成長したオスの平均体長は16~18m、頭部は約5m…体長の三分の一を占める変わり種だ。その張り出した「おでこ」の内側には骨はなく、半透明な液体状の「脳油」がタンク状の袋に入っている。その下側には「ジャンク」と呼ばれる脂肪組織が紅白の縞模様をした形で、脳油共々頭部を構成している。何でこんな構造になっているのだろうか。
 考えられていることは、先端にある鼻孔辺りから音波を頭の後ろ部分にある頭骨の直前にある空気の入った袋、所謂前頭嚢に向けて出す。ここで反射されジャンク組織を通った音は、スピーカーで増幅されるように音響エネルギーとして前頭部から発信される。この音響エネルギーを水深1,000m前後に生息する大好物のダイオウイカに向けて発射すれば、ショックで気絶し、マッコウクジラのエサとなる。
 一般的なクジラは400~500mまで潜るところ、このマッコウクジラは酸素を筋肉に蓄えることで1時間以上の潜水が可能だ。故もあり、水深1,000mまでほぼ同じ速さで、行き来きができる。まさに潜水のチャンピョンだ。その要因は、肺に空気が入らないため地上の数百倍となる深海の水圧に耐えられるのだ。深海はエサを巡る競争相手が少なく、巨大な体を維持するための苦もなく食糧が確保できるから、深海へ進出し、体調がそれ様に進化したのだろう。因みに3,000m辺りまで潜水可能との話もある。
 まさに外観も能力も「生きる潜水艦」ともいうべきマッコウクジラ、潜る時は鼻孔から海水を入れて脳油を冷やして固体にして潜航、浮上する時は脳油の周りに血液を送って温め、液体に戻して浮力を調節して海面に向かっていく。

 このマッコウクジラ、その名の通り抹香の香りを持つ「竜涎香(りゅうぜんこう)」と呼ばれる幻の天然香料の塊が体内で作られるが、その機序は未だ解明されていない。この塊、直径30cm、重さ3㎏ほどのものが国立科学博物館で保管されている。一方、和歌山では1696年に約20㎏ものが発見されている。
 一方、世界では1908年にノルウェーで455㎏のものが、ニュージーランドでは446㎏、南氷洋では420㎏のものが発見されている。何せ寿命は60~70年程で、その間に蓄積するものなのだろうか。この竜涎香は糞石、排泄物の不消化物等など、説は色々あるが、クレオパトラや楊貴妃が愛用したとの話に触れると更に興味が湧く。

 さて、コロナ騒動が一段落したら海岸線に流れ着いたこの「石」状のものを探しに出かけませんか。何しろグラム20ドルで取引される代物、50㎏ものを探し出せれば、まさに貴方は億万長者。過去には和歌山、沖縄、小笠原諸島で発見されているが、貴方の傍にもありますよ、千葉県の銚子でも発見されています。
 だからと言って、一人でのお出掛け、抜け駆けはお避け下さい。仲間の連中が来ているかもしれませんよ。その際お互いに気まずいこととなりますから…。
 是非、声をかけあって行きましょう。なお、発見の際は、話題提供の筆者に1%、否、間違えました10%の情報提供料を申し受けますので、よろしく。

2020年4月
  随想61 水族館

 春になると外出したくなるものだ。然しコロナウイルスの関係で世界的にも外出はままならない状況、日本でも軒並み花見は中止、困った状況が続いている。
 そこで、目をつぶっていただき、イメージしていただきましょう。先ずは海水の匂いを感じてください。そして魚たちが優雅に動いている状況をイメージしてください。如何ですか、多少なりとも昨今の閉塞感解消になりませんか。
 今回の随想は、そのイメージ高揚のお手伝いをさせて頂きます。
 では海まで行くことはありません、手軽に水族館で済ませましょう。尚、その水族館でも通常の見学コースではなく、ディープな裏側にご案内しましょう。

 皆さんは行かれたことがある都市型水族館、現在その数は増えている。日本動物園水族館協会加盟の水族館は60ヵ所を超えたそうだ。総入場者数は3千万人を超え、同協会加盟の動物園の総入園者数は約4千万人に迫る勢いだ。では、何故都市型水族館が増えたのか、その理由を探るのが今回の随想だ。
 先ずは、都心及びその近郊の水族館の水槽内の海水の総水量を見て頂こう。スカイツリーに併設されたすみだ水族館は約700トン、サンシャイン水族館は約770トン、新江ノ島水族館は約3,000トン、葛西臨海水族館は約3,200トン、品川のエプソンアクアパークは約4,500トン。海に近い水族館はやはりスケールは違う。千葉・鴨川のシーワールドは約1万2千トン、八景島シーパラダイスは約1万5千トンだ。関東を離れれば、沖縄の美ら海水族館約1万トン、大阪の海遊館は約1万5千トンだ。

 では、サンシャイン水族館のように海岸から大きく離れた地域に水族館が設置できるようになった背景は何だろう。それは、人工海水製造システムや海水再生システムの高度化によることが大だ。従来水族館の多くは海水をタンクに入れて輸送して使用していた。海から離れるほどコストが高くなることは当然だ。そのコストは都内の水族館で1トン当たり約5千円~1万だった。然し人工海水製造装置のお蔭でコストはその数分の1まで抑えられようになった。
 一方、高性能ろ過システムの技術向上も寄与している。魚や海獣の「ふん」などの有機物を泡の力で水から分離し、すくい出して有機物の量を減らしている。その後、微生物によるろ過装置を通り、アンモニアが硝酸に代わり、脱窒装置で無害化し、残った硝酸は海水で薄めて排水する。がその希釈した後の排水を脱臭、脱色、殺菌してろ過装置に戻して一部を再利用している。

 さて、水族館でも展示だけではなく種々の研究が進められている。その昔スティーブン・スピルバーグ監督の「JAWS/ジョーズ」が上映されたが、そこでの「主役」は人食いザメだ。そのサメはホオジロザメ、熱帯から寒冷域の海で生息し、全長6mに達する。このサメ、妊娠後期は子宮内に無精卵を供給し、胎児はこれを食べて全長1.2~1.5mまで成長することが確認されている。然し妊娠初期の詳細が不明だったが、沖縄 美ら島財団の研究チームが数年前に解明し、専門誌に発表した。
 それによると、定置網にかかった妊娠初期のメスのホオジロザメの子宮内に100ℓ以上のミルクで満たされ、6匹の胎児を養っていたことが確認された。そのミルクは子宮の内壁から分泌され、脂質を多く含んでいた。これはマンタやエイと一緒だとのことだ。昨今の水族館が研究分野にも力を入れている一例だ。

 さて、コロナウイルス騒動いつまで続くのか。その先行きは分からない。収束までは水族館や動物園の入場は厳しいことだろう。水槽の中や檻の中の彼らは人間どもに会えず寂しい思いをしているかもしれない。終息宣言が出たら、是非会いに行ってやってほしい。彼らは貴方を待っていることだろう…。

2020年3月
  随想60 駅路

 今月は弥生、官庁では年度末に当たる。その官庁の業務は国民の安寧と国の体制や国土整備などの執行にあたる。後者の国土整備について、強い印象を持つのが元首相田中角栄により著された「日本列島改造論」だ。今から50年程前の1972年発刊、100万部近いベストセラーだった。
 その当時の高速道路の計画延長距離は7,600km、その後1987年の「第4次全国総合開発計画」によって6,400 kmが追加され、14,000kmとなった。現在その計画はすべて達成できたとは言えないが、実態はそれに近い状況だ。

 然し、今から1350年程前にこの日本で道路が整備され、7世紀から10世紀にかけて「都」と地方をつなぐ道路が総延長6,300kmにも至っていたことは、ご存じだろうか。
 その道幅は平均的には約20m、最小6m・最大30mの規模で、ほぼ直線道路だった。そして30里(約16km、<唐の時代や古来の日本では1里は約4kmではなく、約550mだった>)毎に、宿泊用の施設を整えていた。その道を「駅路(うまやじ、えきろ)」と称し、両側には側溝を備え、宿泊用の施設は「駅家(うまや)」と称した。その駅家には馬や食事を供する駅長が配置されていた。
 建設が進んだのは古代の律令体制下、斉明天皇(在位655~661年)、天智天皇(同668~671年)などの時代だ。駅家の数は最盛期で402箇所、東は上野(群馬県)、西は肥後(熊本県)まで駅路は通じていたとされ、対馬、壱岐、佐渡など離島にもあった。この背景は大化の改新(645年)の翌年に出された詔(みことのり)に駅馬・伝馬を置くことが記され、壬申の乱(672年)に関する「日本書紀」の記述にも駅家が登場している。
 目的は「軍用道路」だとの説もある。確かに663年、白村江の戦いで唐・新羅に敗れて危機感を強めていた朝廷は、防衛体制を固めるため瀬戸内海沿岸の山城などを整備していた。天武天皇(在位673~686年)の頃には、国府の成立や農地を正方形などに区画する条里制の施行時期であり、駅路と一体化させた『列島改造計画』だったと話す識者がいる。

 さて、その駅路は大きくは7本あった。山陽道、東海道、東山道、北陸道、山陰道、南海道、西海道を中心とするもので、先に記す通りその延長距離は6,300km、道は直線を旨として人里離れたところに通っていたことから、やがて埋もれて、廃れていった。なお、世界にもローマ街道に代表される街道はいくつもあるが、殆どは軍用道路であった。日本でも一時期はその目的はあったにせよ、主体は「情報伝送」道路の呈であったようには思える。その思考背景は、大路には原則20頭、中路は同10頭、小路では同5頭の馬が各駅家には配置されていたことだ。

 この7年程の間で、アッピア街道やインカ道の石畳のほんの一部だが目にし、足で踏みて、古代の人達が今ほど情報発達が見られない時期に何故、これほど広範囲に街道が造れたか、唯々驚くばかりだった。

2020年2月
  随想59 バナジウム

「ニッパチ」、昔から2月・8月は一年を通じて景気の悪い月だとの印象が我々世代にはある。故もあり、この2月のテーマは多少夢のあるテーマとした。
 さて、自動車の排ガス用触媒に使用する希少金属バナジウムは、2019年の価格が2016年に比べて4倍近くに高騰している。とにかく需要が伸びて、世界的には足りない。年間生産量はトップのロシアの企業が85トン、2位~5位までは南アフリカの企業で、合計で1位のロシアの企業を多少超える91トン、6位はカナダの企業で7トンだ。
 現状で増産の見通しは2020年代中盤、23年にはインドや中国で一段の排ガス規制が実施されることから、供給不足は2027年まで続くと米シティーバンクでは見ている。それもそうだ。バナジウムを添加した鋼は強度が増し、橋や船舶などに使用される。更に触媒、顔料・塗料、次世代電池へとその用途は期待されている。

 その先行きが明るい「資源」、資源の少ない日本でも生産は可能だと見られている。では、どこにあるのか。それは海の中だ。世界の海水中には30億トンが含まれている、この数値は陸上の200倍以上だが濃度が低い。海水中には海水1トンに溶けている量は、わずか2mg。さて、このような海を「宝の山」に変えるものはこの世に存在するのだろうか。あります。驚くなかれ、それは「ホヤ」なのだ。
 ホヤの中でバナジウムを集める通称「バナジウムホヤ」は、海水中のバナジウムを体内で1,000万倍に濃縮する。体内の「バナビン」というたんぱく質が海水中のバナジウムと結合し、それが「シグネットリング細胞」と呼ばれる血球に蓄積するのだ。1匹のバナジウムホヤからとれるバナジウムは約9mg。10㎏を抽出するには、約100万匹を養殖すればよいことになる。現状のパラジウム価格はグラム当たり約6,500円、ほぼ金の価格と一緒だ。
 コスト的には見合うかどうかは分からないが、日本は海に囲まれた島国だ。養殖に適した海があれば無限に…。
 ホヤの仲間が海水中のバナジウムを濃縮することは、100年超前のドイツ人科学者が発見した。また、さいとう・たかをのゴルゴ13、139巻「海の鉱山」では、まさにこの「バナジウムホヤ」がポイントとなったテーマだ。
 生き物は、バナジウムなど様々なミネラル分を体内に濃縮して蓄積する。そのミネラルは生体の活動を整える働きをするが、高濃度に濃縮する海洋生物は10種類以上も確認されている。こうした生き物から高価なバナジウムを大量に回収する効率の良い方策を貴方が見つければ、貴方は『ビリオネア』だ。筆者は文系、技術に疎い。資格保有者は理学部出身者だろう。まだ遅くない、頑張れ『ビリオネア』を目指して!!

2020年1月
  随想58 能

 年末から年始にかけて「新春 歌舞伎」の告知は各媒体を通じて目にはするが、歌舞伎より歴史が古い能についての「新春 能」にはあまり触れることはない。
 歴史は歌舞伎が約400年、能は約600年で室町時代に大成された。伝統芸能として捉えられてはいるが、20世紀に入って国内外で演劇として再評価され、影響を受ける表現者も少なくない。ついては、今回のテーマを『能』とした。
 平安時代に生まれた『猿楽』という芸能に源流を求める能は、鎌倉時代には各地の寺院と結びついた専業者集団「座」が成立され、当初は天下泰平などを祈る歌舞を代表芸としていた。今日まで続く基盤を作ったのが南北朝から室町時代に活躍した観阿弥、世阿弥の父子だ。彼らは足利義満に寵愛を受けつつ、他の人気芸能やライバルの芸風を採り入れ、歌舞が中心の優美な「能」を創り上げた。それでは能に詳しい方もおられようが、初めての方を対象に舞台廻りから説明しよう。

 「本舞台」は4本の柱に囲まれた三間(約6メートル)四方の正方形、客席に大きく張り出している。奥左側に「橋掛り」と称する役者が登退場だけでなく、本舞台と別の空間として扱う幅一間弱、横幅三間ほどの渡り廊下のような建屋が続き、その奥に「幕」と称する役者が能面をつける「鏡の間」がある。
 では、次に舞台配置、概要は後述するが演目「井筒」の場合で見てみよう。本舞台の一番奥から「鏡板」と称する羽目板があり、そこには老松の絵が描かれている。デザインは舞台により異なるが、それを背にして囃子方が左から太鼓、小鼓、笛の演奏者が並ぶ。そして本舞台左側を背にして2列に並んだ「地謡」8人が、台本のうち、主に情景描写や人物の心情部分を謡うコーラス隊が正座をして並ぶ。その列の正面側に「ワキ」と称する主人公の相手役が本舞台左側を背にしてこれまた正座で並ぶ。舞台中央には「シテ」と称する主人公が立ち、クライマックスでは囃子に乗って美しく舞う。尚、シテの前には所謂舞台装置「作り物」が置かれるが、極限まで簡素化されたものだ。これらで舞台周りの説明は終わり、次は演目の中身に入ろう。

 能には大きくは二つの形式がある。一つは、「夢幻能」、シテは亡霊など超現実的存在。多くは2場構成。前半は仮の姿(前シテ)、後半は本体(後シテ)で現れ、過去を回想するものである。もう一つは「現代能」、登場人物はシテを含めて現実の人間。物語は現実の時間経過に従って進むものだ。
 では、世阿弥が完成させた夢幻能について掘り下げてみよう。現行約240曲あるうちの半数ほどは、シテがワキの夢に現れる設定が夢幻能で、シテの回想として過去の恋や戦いなどが語られまた歌舞で現わされ、ワキは観察に徹する。一方、現代能の登場人物はシテを含め現実の人間。物語は現実の時間経過に従って進むものだ。過去にさかのぼる劇構造が特徴の夢幻能は、時間も空間も自在に行き来する。世阿弥は主人公の多くを「源氏物語」や「平家物語」など、よく知られた古典に求め、巧みに原典や古歌を引用している。
 一方、能といえば伊勢物語の第23段を題材にした「井筒」などのような夢幻能のみかと思われがちだが、勧進帳で有名な「安宅」、人買いから少女を取り戻す男の活躍を描く「自然居士」など現代能の名作も多い。他に汎用的な作品として源平合戦の武者を主人公とする「巴」や「八島」、生き別れた子を求め、さまよう母を描く「隅田川」などある。
 さて、是だけでの説明では 各位を「能」の入り口までもご案内できていない。多少ご興味を持たれた方は、三省堂から歴史や曲目の解説まで記されている「能楽ハンドブック」をご覧いただければ多少は広く知ることになるでしょう。一方、深く知るためには、やはり、鑑賞なされるのが一番。東京・千駄ヶ谷の国立能楽堂では毎月数回、公演がもたれている。因みに今年の新春能は1月2日、3日に銀座SIXの地下3階にある観世能楽堂で開催される。関西方面の方々へ、大阪では1月3日、4日 市内中央区の大槻能楽堂で新春能が開催される。正月々だからこそ、日本の古典芸能に触れるのも一興ですぞ。